日本武尊(やまとたけるのみこと)と白鳥神社

 
 今から約1900年前、ヤマトタケルが首尾よくクマソ兄弟を討ったかと思うと、すぐに出雲の国に転進し計略をもって、その国で暴れていたイズモタケルを平らげ、喜び勇んで大和に帰ってくると「こんどは東国に行ってエゾを討て」と父景行(けいこう)天皇に命ぜられました。

 途中伊勢神宮に詣で、叔母上のヤマト姫から天叢雲の剣(あまのむらくものつるぎ)と火打石をいただきました。

 そして勇躍東をさして進む道すがら、思い出しても不愉快な、あの焼津の原で土地の暴れものにはかられて火攻めにあったり、また上総(かずさ)へ渡る相模(さがみ)の海で、神の怒りを静めるために、弟橘姫(おとたちばなひめ)がミコトの身代わりに海中へ身を投じて入水するという悲しい目にもあいました。

 このように苦心惨憺(くしんさんたん)、ままならぬ東国のものどもをようやくに打ち平らげ、その帰途、鳥居峠に立ち、相模の方を眺められ、入水した姫(おきさき)を忍んで「吾妻者邪(あずまはや)妻こいし」とお叫び(さけび)になりました。

このことから現在でも群馬県に吾妻郡(あがつまぐん)があり嬬恋村(つまこいむら)と名づけられた地名があります。

 それから後、鳥居峠を越えて信濃国に入り、この地で滞在されました。近くの小さな海を見て、相模の海難を思い出されて、「この海も野となれ」と念じられ、それからこの地は海野(うんの)と言うようになったと云われております。

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日本武尊

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日本武尊

 それから大和への凱旋(がいせん)の帰途、伊吹山(いぶきやま)まで来たとき、荒らぶる豪族との戦いに、不覚にも手痛い攻撃をこうむってしまった。
 この負け戦から長年の心労がどっと出て、あの山を越えれば大和だという一歩手前の鈴鹿の能褒野(のぼの)で、ついに動けない事態に陥って(おちいって)しまった。

 苦難に満ちた戦いの思い出が走馬灯のようにミコトの胸をかけめぐり、「ああ、大和に帰りたい、大和は美しいなあ」とふるさとを懐かしみ、

 『大和の国は、日本の中でもすばらしい国である。
 山々が幾重にも重なり、青葉が茂り、山が垣のように囲み、その中にある大和の国はすばらしい。また、私のお伴の中で命が充分にある人は大和に帰り、平群の山(へぐりのやま)の茂った樫の葉をかんざしのように頭にさして、楽しく過ごしなさいよ。』こういって、ふるさとを恋いしたうミコトの声に従臣たちも目がしらを押えました。

 「父君に、東国を平定して参りましたと一言だけいいたいために、やっとここまで来たのに・・・・・・」ひたいには苦痛をこらえる油汗が玉のように吹き出ていました。

 「あーあ死んでも死にきれないなあ」とカッと目をひらかれたミコトはとうとう息を引きとってしまいました。
このとき、御歳わずか30才だったと云います。

 急使によって大和においでになったお妃や子たちが、取るものも取りあえずかけつけて地をかきむしってお嘆(なげき)きになりました。

 そしてミコトがおなくなりになった能褒野(のぼの)の地にお墓を築きましたが、そのお墓が出来上がった時、御陵の中から突然一羽の巨大な白鳥が舞い上がりました。

 あれよ、あれよといううちに巨大な白鳥は2回3回と旋回したかと思うと、生前ミコトがあれほど帰りたがっていた大和をさして飛んでいきました。

 どういうことか、この白鳥は奈良の琴弾(きんだん)の原に翼をしばらく休めた後、再び舞いあがり、それまでミコトが通った東国の道筋をたどって飛んでいきました。あちこちで休んで海野の地にも、この白鳥は飛んできて羽を休めました。

 この時、天皇は諸国に命令し、白鳥の止まった所に祠(ほこら)を建てミコトを祀るよう申されました。
これが白鳥神社であるといわれております。    (古事記より)

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白鳥神社

 この付近には、これにまつわる地名が次のように多く残っております。

 羽毛山(はけやま)・羽毛田(はけた)・片羽(かたは)・尾野山(おのやま)・羽尾山(はねおやま)・両羽(もろは)・尾撫(おなで)・羽掛(はかけ)・尾掛神社(おかけじんじゃ)等がある。

 当白鳥神社は境内876坪、氏子149戸。祭神は日本武尊・白鳥大明神・須佐之男命(天照大神(あまてらすおおみのかみ)の弟で天の岩戸を押し開いたり、また出雲国では八岐大蛇(やまたのおろち)を退治したという方)・貞元親王(さだもとしんのう)・善淵王(よしぶちおう))・海野広道で、中世の豪族海野氏の氏神(うじがみ)であったが、現在は本海野区の産土神(うぶすなかみ)として祀(まつ)られています。

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白鳥神社

 この神社は第14代仲哀(ちゅうあい)天皇(足仲彦(たらしなかつひこ))から、ミコトの大功により、白鳥大明神と贈号をたまわり、神地・神職などをさだめられ、第15代応神(おうじん)天皇(誉田別(ほんたわけ))からも、また勅額を賜りました。

 その後、永久2年(1114)に至り、海野広道は当地領主の祖である貞元親王を本殿に合せ祀られました。

 久寿年間(1154ころ)海野幸明は、また善淵王と海野広道の2霊を合祀し、巨多の神領を寄附された。これより武家の尊信ますます厚く、文治6年(1190)海野氏幸は社殿を今の地に移して再建された。

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白鳥神社境内

 以来海野家累代から真田信之に至るまで数々社領を寄付し、盛んに祭祀を行ってきました。

 元和年間(1615ころ)に至り仙石忠政の領地となり社領を没収される。
 寛永元年(1624)9月、真田信之松代の地に移殿を再建しました。
 寛永17年(1640)仙石忠俊は更に3貫500文の社領を寄附された。

 のち寛保2年(1742)8月洪水のため社領すべて流失する。
 弘化3年(1846)12月には松城藩主真田信濃守幸貫(ゆきつら)より永代10石が寄進されました。

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白鳥神社

 文化5年(1808)雷電為右衛門が信州に巡業のおり海野宿にも立ち寄り白鳥神社へ参拝し、そして毎年8月12日に行われている祭礼相撲のために、4本柱土俵が奉納されました。

 この文書は海野宿歴史民族資料館に展示してあります。
それから以後、明治時代を経て奉納相撲が昭和5年(1930)頃まで続いておりました。

 また神事の舞の一つで、心安らぐ平安な世を願い、昭和15年(1940)皇紀2600年の記念祝典のときにつくられた浦安の舞が、女子8人の舞姫による白鳥神社境内で、手ぶり・身ぶりをしのばせる典雅で荘重な舞、扇の舞と鈴の舞とに分かれております。

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浦安の舞

 祭日は、毎年4月12日と11月23日に浦安の舞を奉納しております。特に11月の勤労感謝の日には「海野宿ふれあい祭り」に併せた大祭の折には赤いジュウタンを敷いた特設舞台が設けられて、カメラのフラッシュが集中します。

 この日近郷近在から海野宿の街並みには、ひとひとで溢れて、歩けないくらいの人が集まります。

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海野宿ふれあい祭り

 また、この神社の社叢は、樹齢700年を越えた欅(けやき)・槐(えんじゅ)等の大木により、立派な鎮守の森となっており、町の天然記念物にも指定されております。

奈良正倉院と海野郷

 正倉院といえば、1200余年も昔、光明皇太后が聖武天皇追善のために東大寺に献納された無数の宝物を収めた庫であります。その宝物は武器・楽器・遊具・服飾・調度品・文具等で日本が世界に誇る宝物庫であることは良く知られているところです。

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正倉院
 
 この正倉院の御物の中に「信濃国小県郡(ちいさがたぐん)海野郷(うんのごう)戸主(へぬし)爪工部君調(はたくみべきみみつぎ)」と墨書された麻織物の紐の芯(ひものしん)があります。これには年号はないが織り方や墨書の形式から推定すると奈良時代の天平年代(729~741)の貢物であろうと推定できます。

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正倉院の墨書

 この頃小県郡に海野郷があり、ここに爪工部を名のる人々が住んでいたことを立証する史料であります。

国郡郷古代日本の行政組織で、それより前は「国評(郡)里」
または「国郡郷里」制
戸 主里に変わって新しく出来た郷の中に50戸が集まった戸の主
爪工部きぬがさ)(貴人の頭上にかざす団扇(うちわ)に、長い柄をつ
をつけたようなもの)をつくる職を持って宮中に奉仕した人々を言う
ここではその子孫という意味であろう
また爪工部は「宿祢(しゅくね)」という姓(かばね)を賜って
いるので、かなり位の高い家柄であったであろう
君という敬称がつけられていることは、この地方の土豪であった
調男子に課せられた貢物で、土地の物産を朝廷へ献上すること

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 どうして、このような職業身分の人たちが、この僻遠(へきえん)の地に定住したのだろうか。

 5世紀のころ、大和政権は逐次(ちくじ)その勢力を拡張するため東山道(ひがしやまみち)を通していました。

 この海野郷は中曽根親王塚をはじめ、多くの古墳が存在していることによって、早くから中央の文化が流れ込んだことはいうまでもありません。

 次項の「日本霊異記(りょういき)」には奈良時代に、この地に大伴連(おおともむらじ)という姓をもつ忍勝(おしかつ)なる人は、氏寺までもつという大きな勢力を張っていたことを記しているが、後世信濃の名族として海野氏は、この大伴の系譜をひくものであろう。
 
 また、当地に「県(あがた)」「三分(みやけ)(屯倉(みやけ))」等の古代の匂いの濃い地名が数多く残り、何れも古代中央の文化が盛んにおしよせてきたことを物語っております。
 しかもすぐ西方には、信濃国府、信濃国分寺があって、信濃国の政治・文化の中心となっていた。それらの文化とともに都から、ここに下って定住し、かなりの勢力者となったのであろう。
 
 そしてまた、何れにしても、この紐は今から1200余年前、海野郷から信濃の牛か馬の背によって、はるばる奈良の都にもたらされ、そして宮中に入り、きらびやかな調度品の中につつましく身をおいて、その責務を果したものであろう。        (千曲20号より)

大伴氏と中曽根親王塚

 「日本国現報善悪霊異記(りょういき)」は、わが国最初の説話集であり、平安初期、弘仁14年(823)前後に奈良薬師寺の僧景戒が編集したと考察されている。
 奈良時代の全国66カ国中、28カ国の116の説話が収められており、東山道に11のうち、信濃国が2つ、しかもこの2つとも小県郡である。
 これは、当時小県郡に国府があり、信濃国の文化の中心であったことを物語るものであります。           

 【大伴連忍勝(おおともむらじおしかつ)は、信濃国小県郡嬢(おうな)の里(現在の東御市一帯の地域)の人である。大伴連らは心を合せて、その里に堂を造って大伴氏の氏寺とした。

 忍勝は大般若経を写すために願を立て、物を集め、髪を剃り袈裟をつけ、戒を受けて仏道を修行し、いつもその堂に住んでいた。
 宝亀5年(774)の春の3月のこと、突然人に落としいれられ、その堂の檀家の者に打たれて死んだ。檀家の者と忍勝とは同族である。
 親類は相はかって「檀家の者を殺人罪として裁いてもらおう」といった。
 そこですぐ忍勝の体を焼かないで、場所をきめて墓を作り、仮に埋葬しておいた。

 ところが5日すぎて忍勝は生き返って、親類の者に次のように言った。

 『5人の召使いが一緒に付いて急いで行った。行く道に非常な坂があった。
 坂の上に登って立ちどまってみると、3つに分れた大きな道があった。
 ひつの道は平らで広く、1つの道は草が生えて荒れ、1つの道は藪でふさがっていた。

 分かれ道の中に王がいた。使いの者が「呼んでまいり ました」といった。王は平の道を指して「この道から連れて行け」といった。

 5人の使いがとりまいて行った。道のはずれに大きな釜があった。
焔のように湯気が立ち、波のようにわき返り、雷のようにうなっていた。
 そこで忍勝を捕まえて、生きながらざんぶと釜に放りこんだ。
 釜は冷えて4つに割れた。そこに3人の僧が出てきて忍勝に向って「おまえはどんなよい事をしたのか」とたずねた。

 「わたしはよい事もせず、ただ大般若経600巻を写そうと思ったので、先に願を立てましたがまだ写していません」といった。
 そのときに3枚の鉄の札を出して比べると、言うとおりであった。

 僧は忍勝に「おまえは本当に願を立てて出家し、仏道を修行した。
このようなよい事をしても、住んでいた堂の物を使ったので、おまえを呼んだのだ。いまは帰って願を果し、また堂の物をつぐなえ」といった。
 そしてやっと許されて帰ってきた。

 3つの分れ道を通りすぎ、坂を下ってみると生き返っていた。
これは願を立てた力と物を使ったための災難で、自分の招いた罪で、地獄のとがではない』といった。

 大般若経に「一体、銭1文は毎日2倍にしていくと20日で174万3貫968文になる。だから1文の銭も盗んで使ってはならない」といっている】

 奈良末期の宝亀5年(774)小県郡嬢(おうな)里(現本海野周辺一帯)に大伴連忍勝なるものがおり、その居館近くに氏寺を建立していることから相当の大氏族で海野郷の中心的人物ではなかっただろうか。

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中曽根親王塚

 大伴氏は、わが国古代から大和政権期に軍事担当した氏族で、6世紀頃まで朝廷の最高権力者であった。
 中曽根親王塚も大伴氏の勢力を示すものではないかと言われている。

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中曽根親王塚

 中曽根親王塚は丸山ともよばれ、円墳のように見えますが、墳丘の麓の1辺の長さは52m内外、高さ11m余の膨大な方墳であります。
このような方墳は全国的に見ても数が少なく、東日本では、その規模において1~2を争うほどの大きさであって、5世紀後半に築造してものと推定されています。

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中曽根親王塚

 奈良朝の末に朝廷は馬の必要性から朝鮮を経て蒙古の馬を導入し全国に32の勅旨牧をつくり、その半分の16の牧場が信濃国に設けられました。

 
 大伴氏は馬を飼う牧場経営者でありました。
この地方には信濃第一の望月の牧が望月氏が管理し、それに次ぐ新治の牧が祢津氏が管理し、その棟梁が海野にいた大伴氏ではなかろうかとも云われている。

 「信濃奇勝録」にもありますが、北御牧村下之城の両羽神社に奉納されている2体の木像があります。1体は海野氏の祖と言われる貞保親王の像で、もう1体は目が大きくて、牙があり総髪の異様なもので、ダッタン人(満州や沿海州をダッタンと言っていた)と呼ばれている船代の像であります。

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(左)貞保親王・(右)船代木像=ダッタン人(両羽神社)

 当時の日本は野生の馬だけでしてので、馬の飼育繁殖の技術指導のために高句麗や蒙古の人達が多く渡来しました。

 騎馬遊牧民族として名高い蒙古人が、牧場の仕事の合間に馬頭琴をひいたり、祖国のメロデーを口ずさんでおり、この美しい音色がやがて土地の歌となって「小諸節」や「江差追分」となり、その本流がモンゴルであると定説になっております。

 大伴氏の栄えた頃、大伴連忍勝も信濃に派遣された一族の末裔で、法華寺川(金原川の下流)に土着して居所を持ちこの嬢里に発生した土豪海野氏はこの大伴氏の血をひくものではないだろうか。 (上田小県誌より)

平将門(たいらのまさかど)と善淵王

 平貞盛は平将門が反乱を企てておると、時の政権をバックにして、ライバルの将門をたおそうと考えておりました。
 さらに将門が製鉄所をつくり、武器や甲胃(かっちゅう)を製造して、反乱を企てていると朝廷に訴えようとしたものであろう。

 地方に居って、醜い争いのまきぞいを食うよりも、将門を中傷するため上京し、それをきっかけに立身出世をしようというものであった。
 
 そこで平貞盛は、承平8年(938)2月中旬、東山道を京都に向けて出発しました。これを聞いた将門は、100余騎の兵をひきいて、まだ碓氷峠には厳雪のある季節これを蹴散らして峠を越え追撃した。

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平将門

 当時の東山道は小諸・海野・上田を経て、そこで千曲川を渡り浦野・保福寺峠と過ぎて松本にはいるのが順路であった。貞盛はこの経路をとり、小諸の西、滋野の総本家の海野古城に立よって、善淵王に助けを求めてこられました。
 
 善淵王と平貞盛との関係は、貞盛がかつて京都で左馬允の職にあった時、信濃御牧の牧監滋野氏と懇意でありました。
 
 この滋野氏は信濃の豪族で「続群書類従」によれば海野氏の祖であります。
 
 清和天皇--貞保親王--目宮王--善淵王 延喜5年(905)はじめて醍醐(だいご)天皇より滋野姓を賜う。
 
 また、以前に将門上京の際、貞盛の依頼によって宇治川を布陣、将門を亡きものにしようとした縁故があった。この協力を謝し、再び、ここでその厚意によって、一息つこうとしたものであろう。
 
 貞盛が海野に助けを求め、海野古城に滞留していることを知った平将門は先まわりして信濃国分寺付近に待機して、神川をはさんで千曲川合戦が行われたのであります。
 この日は冬まだ寒い2月29日のことであったといわれております。この戦火で旧信濃国分寺が焼失してしまったという。貞盛方上兵他田(おさだ)真樹はこの時矢に当って戦死、この他田氏は信濃国造の子孫であるとしているから、郡司として国府にあり、貞盛の危急を聞いて、一族郎党をひきいて応援にかけつけたものであろう。

 従来この上田には国分寺のみあり、国府は松本に移っていたという、貞盛は運よく山中にのがれ、将門は空しく引きあげました。

 「千たび首を掻(か)きて空しく堵邑(とゆう)に還りぬ」と
平将門は、その落胆ぶりを「将門記」に記しております。

uno_05_3.jpg国分寺周辺
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 旅の糧食を失って飢(うえ)と寒さに悩まされ、やっとのことで京都にたどり着いた貞盛は、太政官に訴え出ており、将門に対する召喚状(しょうかんじょう)が出されました。
 
 承平2年(932)平将門返逆の時に勅にして滋野姓を名乗っていた善淵王に御幡を賜りました。これが滋野氏の「州浜」の家紋となりました。

uno_05_6.jpg 州浜の家紋

 清和天皇の第4皇子に貞保親王という方がおり、「桂の親王」とか「四の宮」とも呼ばれておられました。
 貞保親王は琵琶がお上手でありました。ある日、親王が琵琶をお弾きになっていたところ、その演奏の妙なる音色に誘われて1羽のツバメが御殿に入ってきました。

 そのツバメは曲に合わせて飛び回りました。
 あまりにも優雅に飛ぶもので、周りの人達は驚きの声をあげたその瞬間、貞保親王は目を開いてツバメを見上げた時、ツバメの糞が目に入り、痛み出し名医に見てもらったも治りませんでした。

 そのとき信濃国の深井の里のむすめが「信濃国に不思議なほど病に効く加沢温泉があります。」と申し上げました。
 そこで親王は信濃国へ下向され、深井の館にお入りになって温泉に浴されたところ、お痛みはとれましたが、御目は不自由になられたので、そのまま海野庄に住みつくことになりました。

 深井某の娘は、盲目であった親王の身の回りの世話をしていましたが、やがて御子が生まれ、この御子が成長をして善淵王と称するようになりました。醍醐天皇の延喜5年(905)に善淵王は滋野姓を賜りました。

 善淵王は真言宗に深く信仰があり、寺を建立した。貞保親王を宮嶽山稜(みやたけさんりょう)に葬り、神として奉祀りした。
 これが祢津西宮(現東部町祢津)の四之宮権現である。
 天慶4年(941)1月20日に亡くなられ、善淵王の法名(海善寺殿滋王白保大禅定門)を取って海善寺と称された。

 
 600有余年を経て、永禄5年(1562)11月7日武田信玄が本寺を祈願所として寺領若干のほか、なおまた隠居免5貫文を寄附しております。翌年7月28日には、10坊ならび太鼓免36貫100文を寄附しております。

 その後天正15年(1587)頃、領主真田昌幸の時に至り、上田城より丑寅の方が鬼門に当るを以って、本寺を現今の地(上田市新田)に移し「大智山海禅寺」を再建して上田城の鬼門除けとなり、海善寺は廃寺となりました。

 その後江戸時代の大洪水すなわち、寛保2年(1742)の「戌の満水」によって大部分が流失しました。

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海善寺跡

 その廃寺跡の畑から「廃海善寺石塔基礎」が掘り出されて、いま曽根の興善寺本堂の西側の建物軒下に保存されている。

 その1面に「文保□□□月十□ 比丘尼沙弥恵」と刻印され、何年であるかわからないが、文保は2年間しかないので1317年か1318年である。鎌倉時代末期であり、その頃すでにあったことがわかる貴重な資料であります。
 
 真田信之が元和8年(1622)松代西条にこの寺を移し、金剛山開禅寺と改め白鳥神社の別当とした。
 今の本堂は慶安3年(1650)7月に再建し、境内の経蔵は万治3年(1660)の建築で内部の八角輪蔵に天海版一切が納められている経蔵は県宝であります。

 また北御牧村下之城の両羽神社に善淵王の木造が安置されている。

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(左)貞保親王・(右)船代木像=ダッタン人(両羽神社)

白鳥河原に挙兵した木曽義仲

 旭将軍木曽義仲は信州を代表する武将で、爾(なんじ)今現在まで義仲の如き、偉大なる人物を残念ながら見ることは出来ません。
 
 義仲の父源義賢(よしかた)は甥の悪源太義平(15才)に急襲されて討死した。そのとき義賢の次男(後の義仲)は比企部(埼玉県)大倉館で久寿元年(1154)生れて間もない、わずか2才でありました。

 畠山重能(しげよし)に命じ、捜し出して必ず殺せと厳命を受けました。
難なく母子を捕えられたが2才の幼時を討つことができなかった。

 斉藤別当実盛に助けられ、それから信濃の木曽谷の土豪中原兼遠(かねとう)に、この駒王丸母子は預けられたのであります。

 駒王丸は、中原兼遠のもと、木曽谷ですくすく成長しました。
 長じて義仲と名のり、兼遠の子の樋口次郎兼光や今井四郎兼平らを家来とし、武将としての修行をしました。
 また、その娘をめとって義高・義基の二人の子がいました。
 
 治承4年(1180)義仲は27才を迎えていました。
 そんな折、以仁王(もちひとおう)の発した平家追討の令旨(りょうじ)は、山伏に変装し平家の目をくらまして、都を脱出した源行家によって諸国の源氏のもとに伝えられた。
 源頼朝のもとへは、4月下旬に、木曽の義仲へは5月上旬に到着しました。
 
 義仲が、平家討伐の旗挙げを木曽谷の八幡社でしたのは、その年の9月、27才の秋であった。
 かくて、10月には、義仲は上野(群馬県)に進出しました。
 上野国多胡郡は、20数年までは、亡父義賢の本拠地であった。
上野の地は短期間に殆んど勢力圏に収めることができました。

 しかし、約2カ月の滞留の後、軍を信濃に帰したのである。
上野から下野の武蔵など、これ以上に進出することは、従兄の頼朝を刺激することになり、加うるに大豪族として越後から出羽(秋田・山形)にかけて、偉大な勢力の平氏一族の城氏から義仲を討たんとして、北方から信濃に進入の機をうかがっていたからであります。

 軍を直ちに信濃に還した義仲は、おそらく依田城(現上田市丸子)に入り、その年の正月をそこで過したのであろう。

 あくる治承5年春、城四郎助茂(すけもち)は全兵力を集め、6万を率いて信濃侵入を開始しました。
 信濃国境を突破した平家の先鋒、城軍は難なく善光寺平に進出してまいりました。

 一方、木曽義仲は信濃小県郡の白鳥河原に3千余騎の軍勢を集結したのであります。
それは治承5年(1181)初夏の6月10日前後のことであったであろう。

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 現在の白鳥河原(丸子方面より)
 
 白鳥河原で全軍の馬首をそろえたのは、木曽の樋口兼光・今井兼平・木曽中太・弥中太・検非違使(けびいし)太郎以下、諏訪の諏訪次郎・千野太郎・手塚別当以下、東信濃では根井小弥太・楯親忠・塩田高光・矢島行忠・落合兼行・桜井太郎・大室太郎・祢津神平・祢津貞行・祢津信貞・望月次郎一族・志賀七郎一族・平原景能、地元では総大将海野幸親・弥平四郎幸広、
それに上野・甲斐などにいた源氏の将が加わりました。
 
東信濃の武士たちは、新張牧・望月牧・塩河牧の中心勢力者で騎馬の技術は
戦闘に、進軍に予想外の威力を発揮したものであろう。

 白鳥河原への集結は交通の便もさることながら、義仲の旗挙げに力のあっ
た長瀬氏の近くで、しかも集まりやすいということであった。
広大な河原であり地元の豪族海野一族の勢力があったと見ることができる。

 白鳥神社に戦勝祈願参拝、海善寺に先祖代々の霊に出陣の報告をして白鳥河原を後に出陣し、さっそうと千曲川の流れにそって横田河原に到着した。  
 合戦は6月14日朝8時頃、木曽方の奇策により平家のしるしとなっていた赤いのぼりを持つ兵を横手から近づけたら、平家方は見かたがえたと喜んだので、やにわ源氏の白いのぼりを振りかざして攻めつけたので、大敗した城氏は奥州へ逃亡しました。

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倶利伽羅合戦

 木曽義仲は、初の大勝をかち得て、つづいて倶利伽羅峠の戦いで平家の大軍を打ち破っり、またたく間に加賀・越前を平定し、5万の軍勢をひきいて都へと攻め上った。
 この時くつわを並べて戦ったのが、愛妾巴御前と彼女の兄今井兼平である。二人とも義仲の乳母子で、幼い頃から兄弟のようにして育った間柄だった。

 巴は「そのころ齢22、3なり。色白く髪長く、容顔まことに美麗なり。されども大力の強弓精兵」とたたえられた女武者である。
 平家を四国に追い落として入洛した義仲は、朝廷から莫大な恩賞と旭将軍の称号をうけ征夷大将軍に任ぜられましたが、永光は長くはつづかなかった。

 義仲軍の粗野を嫌った後白河法皇が、鎌倉の源頼朝に義仲討伐を命じたからだ。
 永寿3年(1184)1月に頼朝は、弟の範頼と義経に5万の大軍をさずけ、大手の瀬田と、からめ手の宇治川から都に攻め込ませた。

 義仲は今井兼平に5百の軍勢をつけて瀬田の唐橋を守らせ、自身はわずか3百騎をひきいて宇治川から攻め上がって来る義経軍に対したが、兵力の多寡はいかんともし難い。

 一度の合戦で守備陣を破られ、六条河原の戦にも大敗し、敵の包囲網を突き破って栗田口から脱出した時には、従う者は巴をはじめわずか6騎という有様だった。

 死ぬときは一緒にと、子供のころから兼平と誓い合っている。その約束を果たそうと山科を抜けて瀬田の唐橋へ向かっていると、大津の打出浜で兼平の一行50騎ばかりと出合った。

 勇気百倍した二人は、敗残の味方を集めて最後の合戦をこころみるが、敵陣の真っただ中に斬り込み、縦横・蜘蛛手・十文字に駆け破っても、敵は次々と新手をくり出してくる。

 さすがの義仲も、もはやこれまでと覚悟を定め、巴に木曽谷に逃げるように命じた。この戦いに敗れ粟津で討たれてしまったのです。

 義仲・兼平主従が討死してから数年後、一人の尼僧が義仲の墓の側に庵を結んで菩提を弔うようになった。里の者が素姓をたずねても、名も無き者と答えるばかりである。

 そのために庵は無名庵と呼ばれていたが、やがて尼僧は巴であることが分かった。

 後年その地には義仲寺が建てられ、現在も本堂や翁堂・無名庵・文庫などが残されている。今も仲良く、琵琶湖を望む景勝の地で、眠りについているのである。

 海野氏9代海野弥平四郎幸広は寿永2年11月備中水島の合戦で、木曽義仲の大将軍として討死、また弟海野幸長(のちの大夫房覚明)は義仲の祐筆として活躍されました。

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水島合戦城址碑
倉敷市水島乙島常照院内

 この覚明こそ「平家物語」の語り手の1人ではないかといわれている、また白鳥庄に康楽寺を建立しておる。

 海野氏は義仲勢が滅びても騎馬武者の生命は衰えることなく頼朝をはじめ北条・足利・真田氏等に仕え騎馬弓射の道に長じて重く召抱えられました。

s_uno_06_1.jpg 徳音寺の義仲公像(木曽日義村)

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木曽義仲公墓所
左から、樋口兼光、巴御前、義仲公、小枝御前、今井兼平

臼田文書と海野庄

 臼田氏の先祖の滋野光直は小県郡海野庄田中郷の地頭頭を勤めており、それを子の光氏に譲ったという古文書が茨城県稲敷郡(いなしきぐん)江戸崎町羽賀(はが)の臼田修家にあります。
 それは寛元(かんげん)元年(1243)、今から約760年も前のことである。
 
 臼田文書によれば田中郷は貞治6年(1367)に武蔵国帷郷(かたびらごう)(横浜市保土ヶ谷区)と共に臼田勘由左衛門尉直連に譲られた。
 
 小県郡海野庄に領地を持っていた滋野姓臼田氏が常陸に本拠を移したのは何の時代で、どのような理由によってであろうか正確なことは勿論、未だわかっておりません。
 
 上杉は南北朝時代に関東の執事であった。
上杉憲顕は足利兄弟に反抗し、正平6年(1351)信濃国に落ちた。
 その後貞治2年に関東管領に復活して下向し、憲顕の子憲方は常陸国信太荘を領地としたので、その子憲定から嘉慶元年(1387)に臼田氏は布佐郷(茨城県稲敷郡美浦村)を与えられたのであろう。

 臼田氏の移住したところは茨城県の霞ヶ浦南岸の大変に開けた土地であります。
 
 海野荘の加納田中郷(小県郡東部町田中)に所領を持っていた滋野氏の一族田中光氏(みつうじ)は、寛元元年(1243)10月6日に、自分の所領を分けて子供に譲り与えました。

 長男の経氏(つねうじ)、次男の景光(かげみつ)、浦野氏の女房になった女の子、孫の増御前と呼ぶ女の子、小野氏から嫁いできた光氏の妻、それに母の西妙(光氏の父滋野光直の妻)に、次のように譲り与えました。

  • 嫡子経氏 田中郷を譲るに当って、代々家に伝わっている下文(院庁・ 
          将軍政所などから下付された証文)2通、      
          父光直から貰った譲状1通、祖母西妙から貰った譲状1通
  • 子息景光 小太郎屋敷と田1丁
  • 浦野女房 宮三入道屋敷と在家付の田6反(没後経氏知行)
  • 孫増御前 藤入道在家と在家付の田6反(没後経氏知行)
  • 小野氏  父道直の屋敷「堀の内」と内作田2町3反(没後経氏知行)
  • 西妙   父光直の屋敷と作田および光直譲状
年号西暦関係事項
寛元2年124412月30日将軍藤原頼嗣から滋野経氏地頭職の安堵状を下付されております
建長6年125411月5日将軍藤原家政から左衛門尉滋野経氏地頭職の安堵状を下付されております
延慶3年13103月7日鎌倉幕府から左衛門尉滋野経氏の田中郷の内田10町と在家42宇を滋野経長に領知せしむべき安堵状を下付されております
応長元年13112月9日武蔵の国帷の郷(現横浜市保土ヶ谷)の内、名田・在家、信濃の国の田中郷を孫の宮一丸に領地を譲られました
正中3年13263月25日幕府金沢貞顕が臼田四郎重経に領地3分の1を返し付けられる
観応2年1351海野庄田中郷の内 田在家 田3町5反・在家3軒を永代叔父宗氏に大熊の女子に田5反・在家1宇、但し没後は叔父宗氏知行すもし宗氏に子なき時は、惣領(家督をつぐべき家筋)の子孫に返して欲しい
貞治6年1367沙弥至中なる臼田四郎左衛門光重から滋野勘解由左衛門に田中郷と帷郷を譲る。但し没後、鶴宮丸に永代譲り渡す
応安元年13683月23日時の幕府(将軍足利義満)から知行安堵の御教書下付
応永32年1425貞重から孫の小四郎貞氏に次通り譲る。田中郷・惣領職定勝知行分 田畠・在家等武蔵国師岡保小帷郷の内、岸弥三郎入道作本町6反・在家1宇等
文安3年1436政重 上杉憲景より遺跡を譲られる
天正18年1590秀吉の関東進攻は南常陸も一変させ、兵農分離が進んで羽賀に館をおいた臼田氏は、そこを離れた武士身分になろうとせず、ついてそこに土着する道を選んで現在に至る

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茨城県臼田修家

如仲天誾(じょちゅうてんぎん)と興善寺

 日本洞上聯燈録(にほんどうじょうれんとうろく)によると、如仲は海野氏の一族で、貞治(じょうぢ)4年(1365)9月5日に生れ、5才の時に母を亡くし、9才のときに伊那谷上穂(うわぶ)山(駒ヶ根市赤穂町白山天台宗光前寺)の恵明(えみょう)法師のもとで仏教に関する書物を学びましたが、たまたま法華経を読んでいたところ、「成物己来甚大久遠」という一節の文に疑いを持ち始め、ひそかに禅宗の寺を慕(した)って、上州の吉祥寺(群馬県利根郡川湯村臨済宗鎌倉建長寺派)大拙祖能公の門に入って髪を剃って僧侶となり、仏道の道を歩み始めました。

 その後、越前(今の福井県)坂井郡金津町御簾尾(みずのお)平田山瀧沢寺(りゅうたくじ)を開山した梅山聞本(ばいざんもんぼん)(美濃の生れ)をたずねて座禅をし、厳しい禅宗の修行を極めえることができた。

 応永10年(1403)に師の梅山は如仲に向って「この上は、深山幽谷に籠り草庵を結んで長養するがよい」とすすめられました。

 瀧沢寺を去って近江の国(今の滋賀県)に南下し、琵琶湖の北辺、塩津の祝(のろい)山に入って洞春庵(どうしゅうあん)をかまえて世間から離れて悟(さと)り、それから修行に専念すること3年に及んだ。
 そんな如仲天誾の徳風を聞いて、多くの学徒で室が狭いくらいいっぱい集まりました。
 そこで弟子の道空に譲り、応永13年(1406)には、その東方余呉湖の東約5㎞の丹生川菅並(すがなみ)の山谷に洞寿院(どうじゅいん)の基を開きました。

 
 この頃遠江(今の静岡県)周知郡飯田城主に山内対馬守崇信(つしまのかみたかのぶ)(法号崇信寺(そうしんじ)玉山道美)という地頭級の小領主がおりました。
 遠く如仲の学徳を聞いて深く帰向し、応永8年(1401)崇信寺(そうしんじ(同郡森町飯田)を聞いて迎請(げいしょう)し開山しました。

 この崇信(たかのぷ)は信長・秀吉・家康に仕えて、山内家初代土佐藩主となった山内一豊の祖先であるといわれております。
 
 如仲は此処に閑静安住の地を見出したと思ったのも束の間に過ぎず、年と共に多数参集するに至ったので、3度盾れて北方6㎞余の橘谷(遠州一宮の神)の奥衾谷川の水源近い地に、応永18年(1411)橘谷山大洞院(きっこうざんだいどういん)を開創し、開山には梅山を第1世と仰ぎ、自(みずから)らは2世となったのです。

 応永28年(1421)2月には総持寺(そうじじ)の40世となっております。

 如仲はその後正長元年(1428)に梵鐘を鋳造しているが、これを鋳造した鋳物師(いもじ)は一宮庄内、特に天宮(あまのみや)神社の周辺に移住して、太田川の川隈等に堆積する砂鉄を利用していた一群である。
 梵鐘以下の寺院用鉄製仏具・朝廷や足利将軍に献納する調度品の外、色々な民需品を鋳造し、遠く近畿地方まで隊商を組織し広くこれを全国的に売り捌(さば)いていたのである。
 
 梅山がなくなったあと、瀧沢寺は住持(じゅうじ)が14年間もいなくなってしまいました。
 寺は荒れてしまっていましたので、檀家のひとたちは如仲天誾をはるばる遠州(今の静岡県)まで訪ねて瀧沢寺の住持となって欲しいと頼みました。
 永享2年(1430)4月、その強い熱意に応えて瀧沢寺の第6世となりました。

 廃(すた)ておりました寺の建物を直したり、梅山大和尚の教えをよく受けついで瀧沢寺の復興に尽くしましたので、後の世になり瀧沢寺中興の祖と仰がれて降ります。

 瀧沢寺に住持して8年、寺も復興してきたので、永享10年(1438)瀧沢寺を去って再び近江の洞寿院へ帰りました。
 晩年には加賀の仏陀寺(ぶつだじ)にも住持した。如仲天誾は永享9年(1437)2月4日に亡くなり、享年75才であった。
 今もお墓は瀧沢寺にあります。

 門弟には英傑が出てそれぞれ一派をなし、近江・東海3州をはじめ、広く各地に繁延して太源門下梅山系の主流をなし、後世その門葉は大いに繁栄しました。

 
 橘谷山大洞院は、応永18年(1411)如仲天誾禅師の開いた寺で、時の将軍足利義持の寄進によりこの地に禅の大道場が建立されました。
 梅山聞本禅師を勧請の開山として仰いでおります。

 門前には、清水次郎長一家の名物男、森の石松の墓があります。
 余談になるが、近年この森の石松の墓をさすると、パチンコの玉の出がよいとか、株式売買で成功するとかで全国各地から噂がうわさを呼び、この墓をお参りに来る人が絶えない状態で、角が丸くなってしまったと云われております。

 またしても筆が勇んで横すべりしたと思われる。再び本筋に立ちかえります。

 曹洞宗寺数は17,549寺、永平寺末2,027ケ寺・総持寺末15,522ケ寺の中で中通幻派8,931ケ寺・大源派4,358ケ寺の中、如仲派3,200余ケ寺の末寺をもっております。その門末寺に火防守衛の総本山万松山可睡斎(かすいさい)(静岡県袋井市久能)があり、この末寺が当町の海野小太郎開基の瑞泉山興善寺(海野宿の北方の丘)であります。

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可睡斎(かすいさい)(静岡県袋井市久能)

 興善寺は、平安・鎌倉以来、戦国時代に至る600余年の間、この地に勢力を張っていたのが海野氏で、海野小太郎幸義(幸善ともかく)のとき、武田信虎・諏訪頼重・村上義清の圧迫するところとなったので、武運長久と領地の安泰を祈願して、永正10年(1513)曹洞宗の寺院を開基し自分の名前をそのまま幸善寺と命名されました。

 天文10年(1541)5月の海野平合戦に武田・諏訪・村上の連合軍に敗れ、29代海野幸義は神川にて戦死(法名瑞泉院殿器山道天大居士)。

 
 その後貞享3年(1696)火災のため建築物のすべてを焼失した。
それから20年ほどを経て、享保年間、名僧知識と言われた第13世泰音禅師のときに、檀家の協力を得て、現在の位置に本堂等再建されました。この復興したときから、幸善寺を興善寺と改められました。
 明治4年(1871)再度の火災に見舞われ、重要文献その他の貴重品の大部分を焼失されました。

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興善寺山門

 現在住職は、30世柴田善達禅師に及んでおります。
 その間幾多の名僧を出しました。中でも18世泉随禅師は、能州総持寺(のちに鶴見に移る)の貫主となった名僧であります。

 興善寺の山号瑞泉山。曹洞宗、本尊は釈迦坐像(像高90㎝)で右に文殊菩薩坐像・左に普賢菩薩像。

 興善寺末寺は向陽院(丸子町塩川狐塚)・全宗院(上田市中吉田)・金窓寺(上田市諏訪形)・日輪寺(上田市横町)・大英寺(埴科郡坂城町)・天照寺(長野市篠ノ井小松原)。

 境内の敷地2300余坪。本堂・位牌堂・庫裡・鐘楼・豪華な山門・豪壮な石垣。特に本堂の鬼瓦であるが、明治4年の火災のあと、同20年再建、80年ぶりで昭和38年屋根の葺き替え、鬼瓦を下ろされました。高さ4.9m底の開き4.54m、重さ1.9t、25個の組立て、普請に当った瓦職人も、長野県内にこれだけの大きなものは見たことが無いと言っておりました。

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興善寺の石垣と山門

 また境内には、多孔質安山岩でつくられた、高さ28㎝・底面46㎝の直角の石塔基礎で昭和21年に海善寺跡の畑から出土したものであります。
 文保(1318)の年号が陰刻してあり、鎌倉時代にあったと思われる廃海善寺の歴史を物語る貴重な資料であり、武田信玄がこの寺で武運を祈ったと伝えられております。

 その後真田昌幸が上田城をつくられたときに鬼門除として移り海禅寺と改称し、真田信之の松代移封にともない寺も松代に移り開善寺と改称され今日に至っております。

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山門から見た本堂

武田信玄と海野氏

 天文7年(1538)6月、北条軍との和議が成立して3年間武田信虎は珍しく戦がなく平穏な暮らしが続いていた。
 天文9年5月、24才で諏訪氏を継いだ頼重に信虎の娘の祢々(ねね)(晴信のちの信玄の妹)を11月に嫁がせております。
 
 信虎が最後の合戦を飾ったのは48才の天文10年(1541)の晩春に始まった信州の「佐久攻略」であった。
 晴信21才の初陣説は、このあたりから出ている。
 「甲陽軍艦(こうようぐんかん)」「武田三代軍記」などでは信虎・晴信父子の奮戦ぶりを克明に描いている。
 信虎軍は1日に36の城を攻め落としたと伝えられております。
 
 武田信虎軍は佐久を通って、現在の白樺湖に近い大門峠を降り、諏訪頼重は下諏訪の和田峠から山つたいに、村上義清軍は戸石城で兵力をそろえ、いずれも血に飢えたような連合軍で戦闘をいどんだ。
 折からの雨期に大雨が続いて戦場は水びたし、川はあふれ、おぼれる者さえ出る中を滋野三家の前衛とする城は次々とたたかれた。

 双方の主力がぶつかりあい。防衛軍は歯を食いしばって戦ったけれど、5月13日に尾野山(現丸子町生田)の城が落され、翌日海野平(現白鳥団地)を占拠され、海野城の本拠は陥落(かんらく)しました。

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武田信玄の陣

 
 祢津元直は晴信の妹が妻であることと、諏訪神社の神官と縁をむすんでいたので特に許され、望月氏は武田軍に降伏した。
 
 この三者(武田・諏訪・村上)がどんなふうに海野討滅の計画をきめたかは、わからないが村上氏は前から海野をくつがえそうとねらっていたことは確かである。

 海野一族と隣り合わせで、同じ千曲の沿岸に葛尾城を強化した村上氏は海野氏を快く思っていなかったので応仁元年(1467)に両者が激突を起こし、海野氏を惨敗し、上田川西地方に勢力範囲を広げ野望をめざしていたが、武田信玄に弘治3年(1557)2月15日火攻めで落城しました。

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海野平古戦場之図

 もう1人の諏訪氏も海野城を攻め入った翌年には、信玄にはかられて悲憤の最期をとげたし、武田信虎は、わが子の信玄に追放されるという運命に立たされました。
 
 のち天文22年(1553)に、あの有名な上杉謙信との川中島の戦いとなります

 その後、永禄4年(1561)海野氏の家名を滅ぼすことは心ならぬと、信玄の第2子次郎信親は〔母は三条内大臣公頼女で、天文7年(1538)生まれで、盲目のため髪をたくわえず別館にいた。居館は城北の聖道(しょうどう)小路。時の人お聖道(しょうどう)様という。

 また4男が勝頼で、5男が仁科五郎盛信である。〕海野幸義公の女子を妻として、海野民部亟龍宝(うんのみぶのじょうりゅうほう)と名乗り海野氏を継いだといわれております。

 海野の旧臣80騎の将となり、性格は穏やかで慈しみ深く、人々から敬愛され、龍宝の陣代として小草野若狭守隆在に100貫から1,000貫を与え家老(のち奥座)をつとめさせた。

 
 天正10年(1582)3月11日武田勝頼・信勝父子が天目山に敗死を聞き、城南畔村(現甲府市住吉町)入明寺(にゅうみょうじ)内で自刃した。(年42才、法名長元院殿釈潭竜芳大居士)

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入明寺

 その子顕了道快は甲府長延寺に隠れ織田信長の目を逃れ、その子信正は赦免され、その子信興は江戸時代高家(大名に準ずる格式を与えられ、朝廷に対する儀式をつかさどった)の衆に列し、子孫武田家を伝承して15代目武田昌信氏となり、東京都世田谷に現存しておられます。

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武田龍宝墓所