ものがたり「海野」
(1)日本武尊と白鳥神社
今から約1900年前、第12代景行天皇の第二皇子(皇太子)・日本武尊(やまとたけるのみこと)は、西の方の熊襲建(くまそたける)兄弟を討って出雲国に入り、出雲建(いずもたける)を平らげて大和に帰ると、父景(けい)行(こう)天皇から「今度は東国に行って蝦夷を討て」と命じられた。日本武尊は東国に向かう途中、伊勢神宮に参拝し叔母上の倭姫命(やまとひめのみこと)から「天(あまの)叢(むら)雲(くも)の剣(つるぎ)」と御袋を手渡された。尾張国(現在の愛知県)から相模国に進んで、土地の暴れ者から火攻めにされた時、ミコトは先ず剣で草木を刈り払い叔母上から授かった袋に入っていた火打石で向火をつけて火の勢いを弱め、野原から難を逃れた。この地を焼津(やいづ)という。
上総(かずさ)へ渡る相模(さがみ)の海(浦賀水道)で波が高く船が進めなかった時、波を静めようと妃(きさき)の弟(おとうと)橘(たちばな)姫(ひめ)が海中へ身を投じた所、荒波が治まり船は無事に進むことが出来た。その7日後に妃の櫛が海辺に打ち寄られたという。苦心(くしん)惨憺(さんたん)して東国を平定した。その帰途鳥居峠(『古事記』では足柄峠)に立たれ、遠く相模の方を眺め入水した妃を忍んで「吾妻者(あずま)邪(はや)妻こいし」と三回ほどお叫(さけ)びになった。
このことから、現在でも群馬県に吾妻郡(あがつまぐん)があり、そこに嬬恋村(つまこいむら)と名づけられたという村がある。
それから後、鳥居峠を越えて信濃国に入り、この地で滞在された。近くの小さな海を見て相模の海難を思い出し「この海も野となれ」と念じられ、後に海野(うんの)と言われるようになったという。
日本武尊
日本武尊
大和への凱旋(がいせん)の帰途、伊吹山(滋賀県坂田郡伊吹町と岐阜県揖斐郡春日村との境にある山)で豪族と戦い、手痛い攻撃を蒙(こうむ)って心労が出、「あの山を越えれば大和だ」と思いつつも、一歩手前の鈴鹿の能煩(のぼ)野(の)(三重県鈴鹿市の西方)で病死された。
伊吹山(滋賀県)
苦難の思い出が走馬灯のようにミコトの胸をかけめぐり、「ああ大和に帰りたい大和は美しいなあ」と故郷を懐かしみ、
「大和の国は日本の中でもすばらしい国である。山々が幾重にも重なり、青葉が茂る。私のお伴の人は大和に帰り平群(へぐり)の山(やま)の茂った樫の葉を髪にさして楽しく過ごしなさいよ」という言葉に従臣たちも目がしらを押えた。
「父君に東国を平定して参りましたと一言だけ言うために、やっとここまで来たのに…」額には油汗が玉のように吹き出、「あーあ死んでも死にきれないなあ」とミコトは息を引きとった。御歳わずか30歳だった。
大和にいたお妃や子たちは知らせを聞いて掛けつけ、お嘆(なげ)きになった。亡くなった能煩野(三重県亀山市田村町)の地には、お墓が築かれた。お墓が出来上がった時、御陵から一羽の巨大な白鳥が舞い上がったという。
能煩野陵
白鳥は2回3回と旋回しながら大和を目指して飛び去った。奈良の「琴弾(きんだん)の原」に翼を休めた後、再び舞いあがり、それまでミコトが通った東国の道筋をたどって飛んでいった。あちこちで休んで海野の地にも、この白鳥は飛んできて羽を休めたという。
第14代仲哀(ちゅうあい)天皇は諸国に白鳥が舞い降りた所に祠(ほこら)を建て、ミコトを祀るよう命令した。これが白鳥神社であると伝えられている。〈『古事記』より〉
白鳥神社
東御市周辺には、これにまつわる地名が次のように多く残っている。 羽毛山(はけやま)・羽毛田(はけた)・片羽(かたは)・尾野山(おのやま)・羽(はね)尾山(おやま)・両羽(もろは)・尾撫(おなで)・羽(は)掛(かけ)・尾(お)掛(かけ)神社(じんじゃ)等がある。
海野の白鳥神社は、境内876坪、氏子149戸。祭神は日本武尊・白鳥大明神・須佐之男命・貞元(さだもと)親王(しんのう)・善(よし)淵(ぶち)王(おう)・海野広道で、中世の豪族海野氏の氏神(うじがみ)であったが、現在は本海野区の産土(うぶすな)神(かみ)として祀(まつ)られている。須佐之男命は天(あま)照(てらす)大神(おおみのかみ)の弟で天の岩戸を押開たり、また出雲国では八(や)岐(またの)大蛇(おろち)を退治したという方である。
「本海野の歴史」に次のような一文が記されている。
貞元親王と書いてサダヤス親王と呼称している。この貞元親王は貞保親王の兄ではないかと思われる。貞元親王・貞保親王・善淵王などは海野氏の祖であるとされているが、史実上は定かではない。
白鳥神社
この神社は第14代仲哀(ちゅうあい)天皇(足仲彦(たらしなかつひこ))から白鳥大明神と贈号を賜り、神地・神職などが定められ、第15代応(おう)神(じん)天皇(誉田(ほんた)別(わけ))からも勅額を賜った。
建久元年(1190)10代海野小太郎氏幸は社殿を今の地に移したと伝えられている。
西行は、白鳥明神に和歌を奉納している。
罪とがを あらい流して いさぎよき
清き海野や 濁なからん 西行
この時、海野幸氏も白鳥明神に和歌を奉納している。
この海野 きよき流れに 白鳥は
あとたれ 初めて 幾世へにけん 幸氏
白鳥神社境内
以来海野家累代から真田信之に至るまで数々社領を寄付し盛んに祭祀を行ってきた。
元和年間(1615~23)に至り仙石忠政の領地となり社領を没収された。
寛永元年(1624)9月真田信之松代の地に移殿を再建した。
寛永17年(1640)仙石忠俊は更に3貫500文の社領を寄附した。
のち寛保2年(1742)8月洪水のため社領すべて流失する。
弘化3年(1846)12月には松城藩主真田信濃守幸(ゆき)貫(つら)より永代10石が寄進された。
文化5年(1808)雷電為右衛門が信州巡業の際に海野宿を訪れ白鳥神社へ参拝して、毎年8月12日に催される祭礼相撲のために4本柱土俵を奉納した。〈「海野宿資料館」展示資料より〉
それ以後明治時代を経て奉納相撲が昭和5年(1930)頃まで続いた。 また神事の舞の一つで、心安らぐ平安な世を願い昭和15年(1940)皇紀2600年の記念祝典の時に造られた「浦安の舞」が、女子8人の舞姫による白鳥神社境内で扇の舞と鈴の舞とに分かれて舞われる。
浦安の舞
「浦安の舞」は祭日(4月12日と11月第三土曜日)に奉納される。特に11月の「海野宿ふれあい祭り」に併せた大祭の折には赤い毛氈(もうせん)を敷いた特設舞台が設けられて、カメラのフラッシュが集中する。この日には、近郷近在や県外から海野宿の街並みに、歩けないくらいの人が集まる。
海野宿ふれあい祭り
神社の社叢は樹齢700年を越えた欅(けやき)・槐(えんじゅ)等大木は、市の天然記念物にも指定されている。
(2)大伴氏と中曽根親王塚
『日本国現報善悪霊異記(日本霊異記)』は、わが国最古の説話集であり、平安初期弘仁14年(823)前後に奈良薬師寺の僧景戒が編集したと考察されている。
奈良時代の全国66カ国中、28カ国の116の説話が収められており、東山道に11の内、信濃国に逸話が二つ残る。跡目の里(上田市川西方面から青木村)と、もう一つは嬢(おうな)の里(海野郷)の説話である。これは、小県郡に国府があり信濃国の文化の中心を物語る。
嬢(おうな)の里(海野郷)の説話について紹介しよう。
大伴連(おおともむらじ)忍(おし)勝(かつ)は信濃国小県郡嬢の里(現在の東御市一帯)の人である。大伴連らは心を合せて、その里に堂を造って大伴氏の氏寺とした。忍勝は大般若経を写すために願を立て、物を集めて髪を剃り袈裟をつけ戒を受けて仏道を修行し、いつもその堂に住んでいた。
宝亀5年(774)の春の3月突然、その堂の檀家の者に陥(おとしい)れられ、打たれて死んだ。その者は忍勝と同族であったという。親類たちは「檀家の者を殺人罪として裁いてもらおう」と話し合った。すぐ忍勝の体を焼かないで、仮に埋葬した。5日後、忍勝は生き返って親類の者に次のように語ったという。
5人の召使いが一緒に付いて行った。険しい坂の上に登ると、3つに分れた大きな道があった。平らで広い道と草が生えた荒れた道と、もう一つの道は藪(やぶ)でふさがっていた。分かれ道の中に王がいて使いの者が「呼んでまいりました」と言った。王は平らな道を指して「この道から連れて行け」と言った。道のはずれの大きな釜には焔(ほのお)のように湯気が立ち、波のようにわき返り、雷のようにうなっていた。忍勝は捕まえられて釜に放りこまれた。釜は冷えて4つに割れた。
そこに3人の僧が出てきて忍勝に「おまえはどんなよい事をしたのか」と尋ねた。「わたしは良い事もせず、ただ大般若経600巻を写そうと思い願を立てたが、まだ写しておりません」と言った。
僧は忍勝に「おまえは本当に願を立てて出家し仏道を修行した。このようなよい事をしても、住んでいた堂の物を使ったので、おまえを呼んだのだ。いまは帰って願を果し堂の物をつぐなえ」といった。そしてやっと許されて帰ってきた。3つの分れ道を通り過ぎ、坂を下ってみると生き返っていた。これは、物を使ったために自分の招いた罪で、地獄のせいではない。大般若経では「一体、銭一文は毎日2倍にしていくと20日で174万3貫968文になる。だから一文の銭も盗んで使ってはならない」といっている。
奈良末期の宝亀5年(774)小県郡嬢里(現本海野周辺一帯)に大伴連忍勝が居り、法華寺川(金原川の下流)に居所を構え、中央に直結する政治・文化の担い手だった事がわかる。居館近くに氏寺を建立していることから相当の勢力者であり、海野郷の中心的人物であった事がわかる。
中曽根親王塚
大伴氏は古代から6世紀頃まで大和政権の中核で軍事を担当していた。後世の海野氏は、この大伴氏の系譜をひくものではなかろうかという説もある。
中曽根親王塚も大伴氏の勢力を示すものではないかと言われている。
中曽根親王塚断面図
中曽根親王塚は丸山とも呼ばれ円墳のように見えるが、墳丘の麓の一辺の長さは52m内外、高さ11m余の膨大な方墳で、このような方墳は全国的に見ても数が少なく、東日本では、規模において1~2を争うほどの大きさで5世紀後半に築造してものと推定される。
奈良朝末期に朝廷は多くの馬を必要とした。朝鮮半島を経て蒙古の馬を導入し全国に32の勅旨牧を造営したが、その半分の16の牧が信濃国に設けられたという。
大伴氏は馬を飼う牧場経営者でもあった。信濃第一の望月の牧を望月氏が管理し、それに次ぐ新治の牧を祢津氏が管理したが、その棟梁が海野にいた大伴氏ではなかろうかとも言われている。〈「上田小県誌」より〉
(3)平将門と善淵王
第50代恒武天皇の第三子葛原(かずらわら)親王は東国に荘園を持っていた。葛原親王の子に高見王がおり、その子が高望王である。この高望王が「平」の姓を賜ったのだという。平高望が寛平2年(890)52歳のとき上総介に任命され一族郎党を引きつれて東国に下った。
そのころ大和朝廷に征服され帰順した「えぞ」を上総や下総につれてきて「俘因(ふしゅう)」といって集団生活をさせていた。その「俘因」がたびたび反乱を起こし、朝廷を悩ませていたので平高望(たかもち)に国内の治安維持にあたらせた。高望の長子・国香(くにか (鎮守府将軍)には菊間(現在の千葉県市原市)に、二男の良兼(よしかね)には横芝に、三男の良将(よしまさ)には佐倉に、四男の良繇(よしより)には天羽に、それぞれ配置して上総一帯を治めていた。佐倉にいた良将は下総介と同時に鎮守府将軍も兼ねていた。
延喜11年(911)平高望が73歳の生涯を閉じると、中央政府は翌延喜12年に、藤原利仁を上総介に任命し、15年に鎮守府将軍に任じた。これに対して面白くないのは高望の長男国香であった。延喜17年(917)に良将が亡くなり、今まで一門を中心とした上総・下総の勢力が崩れかけていった。
平国香は平将門(たいらまさかど)に攻め殺された時、国香の子・貞(さだ)盛(もり)は京都にいたが東国に下り、伯父の良兼と力を合わせて平将門を攻めたが力及ばず敗れた。そこで平貞盛は都に上って官軍の力を借りて平将門を撃とうとした。平貞盛は平将門が武器や甲冑を製造して反乱を企てていると朝廷に訴えようと、承平8年(938)2月中旬、京都の高官達に贈る「袖の下」を十分準備して東山道を京都に向って出発した。
これを知った将門は百余騎の兵を率いて、雪の碓氷峠を越え貞盛を追撃した。
平将門
当時の東山道は小諸・海野・上田を経て、千曲川を渡り浦野・保福寺峠を越えて松本に入るのが順路であった。貞盛は途中、滋野総本家の海野古城(現在の東御市本海野三分)に立よって善淵王に助けを求めた。
平貞盛は、かつて京都で左馬允の職にあったとき、信濃の御牧の牧監滋野氏と懇意であった。
信濃の豪族滋野氏は『続群書類従』によると海野氏の祖となっている。
第56代清和天皇の子貞保親王に嫁いだ信濃介滋野恒蔭の娘に目宮王(菊宮)が生まれた。目宮王の子善淵王は、延喜5年(905)第60代醍醐(だいご)天皇より滋野姓を賜ったという。
平貞盛が海野に助けを求め海野古城に滞留していることを知った平将門は、先まわりして信濃国分寺付近に待機したという。そこは上田の東方で北から流れる神川の橋の付近であった。天慶2年(939) 将門は貞盛に千曲川を渡らせまいと戦い、千曲川合戦(天慶の乱)が行われた。
まだ寒い2月29日のことであったと言われている。この戦火で旧信濃国分寺が焼失したという。この時国府は松本に移っていて上田には国分寺のみがあったという。
信濃国分寺
貞盛方の勇将他(おさ)田(だ)真樹は、この時に敵の矢に当って戦死した。この他田氏は信濃国造の子孫で郡司として国府におり、貞盛の危急を聞いて一族郎党を率いて応援に駆け付けたのであろう。
この時、貞盛は負傷し運よく小牧山中に逃れ助かった。将門は貞盛を討つべく手を尽くしたが見つからず東国へ引きあげたという。
「千たび 首を掻(か)きて 空しく 堵邑(とゆう)に 還りぬ」と平将門は、その落胆ぶりを「将門記」に記している。
国分寺周辺
平貞盛は難を逃れたが長途の旅で食糧は奪われ、飢(うえ)と寒さに悩まされ悲惨な思いで京都に着いた。「袖の下」などは途中で紛失したので太政官に訴えても真剣に取り上げられなかった。本国で糺明(きゅうめい)せよという召喚状(しょうかんじょう)をもらい、天慶2年(939)10月貞盛は将門召喚の官符をもって、間関に下向した。
〈赤城宗徳著「新編将門地誌」より〉
承平2年(932)平将門反逆の時に、勅にして滋野姓を名乗っていた善淵王に御幡を賜った。これが滋野氏の「州浜」の家紋となったという。
州浜の家紋
第56代清和天皇の第4皇子に貞保親王という方がおり「桂の親王」とか「四の宮」とも呼ばれていた。
貞保親王は琵琶が上手であった。親王が琵琶を演奏すると1羽のツバメが御殿に入り曲に合わせて飛び回り、あまりにも優雅に飛ぶもので周りの人達は驚きの声をあげた。貞保親王が見上げた時、ツバメの糞が目に入り痛みを覚えた。名医が見ても治らず、「信濃国に病に効く鹿沢温泉がある」と聞き親王は信濃国へ下向された。深井の館から温泉に通うと、痛みはとれたが目は不自由になり海野庄に住んだと言われている。
鹿沢温泉までの山の湯道には、新張村(現在は長野県東御市新張)の一番観音から地蔵峠を越えて、旧鹿沢温泉の紅葉館まで「百体観音」が祀られている。鹿沢温泉薬師堂は貞保親王が信仰したという薬師如来が安置されている。
元禄5年(1692)5月8日願主冝伝道周居士が末世に残した『鹿沢薬湯縁起巻物(小林大助氏所蔵)』が残る。
深井某の娘は盲目になった親王の世話をしていた。やがて子が生まれ善淵王と称した。善淵王は第60代醍醐天皇から延喜5年(905)滋野姓を賜り、真言宗の寺を建立した。貞保親王が延喜2年(902)4月13日に死去し宮(みや)嶽(たけ)山陵(さんりょう)に奉葬された。これが祢津西宮(現在の東部町祢津)の四之宮権現であると伝えられている。その後松代藩真田家より毎年米10石、祢津領主より米18石を御供料として進納されていたが明治維新のころから廃された。
善淵王は天慶4年(941)1月20日に亡くなられ、その菩提寺は法名(海善寺殿滋王白保大禅定門)を取って海善寺と称された。
600有余年を経て永禄5年(1562)11月7日武田信玄が本寺を祈願所として寺領若干のほか、隠居免5貫文を寄附している。翌年7月28日には10坊ならび太鼓免として36貫500文を寄附している。その後天正15年(1587)頃、領主真田昌幸の時に上田城より丑寅の方に本寺を現在の地(上田市新田)に移し「大智山海禅寺」として再建され上田城の鬼門除けとなった。海野郷の海善寺は廃寺となり地名のみが残っている。
その後江戸時代の大洪水、寛保2年(1742)の「戌の満水」によって、元の海善寺の大部分が流失した。
廃海善寺跡
その廃寺跡の畑から「廃海善寺石塔基礎」が掘り出されて、今は曽根の興善寺本堂の西側の座禅堂軒下に保存されている。
その一面に「文保□□□月十□ 比丘尼沙弥恵」と刻印され、何年であるかわからないが、文保は2年間しかないので1317~18年であろう。鎌倉時代末期であったことがわかる貴重な資料である。
真田信之が元和8年(1622)松代西条にこの寺を移し「金剛山開善寺」と改め白鳥神社の別当とした。松代歴代藩主の祈願寺として保護をうけた。慶安2年(1649)8月寺領として50石を、幕府から朱印地として与えられ、藩からは御祈祷料120俵、大般若料金11両1分が進献された。
今の本堂は慶安3年(1650)7月に再建された。境内の経蔵(県宝)は万治3年(1660)の建築で内部の八角輪蔵に天海版一切が納められている。
(4)木曽義仲と大夫房覚明
旭将軍木曽義仲は、信州を代表する武将であった。
木曽義仲の武勇については〈「二、海野氏のあしあと」の(七)木曽義仲の旗挙げ、(八)横田河原合戦、(九) 燧ケ城・般若野合戦、(十)倶利伽羅合戦、(十一)平家の都落ち、(十二)水島合戦〉の項をご覧ください〉
義仲は寿永3年(1184)1月3日征夷大将軍の宣下を受けたが、宇治川渡河戦・瀬田の戦で敗れ都から北陸へ落ちる途中、もはやこれまでと覚悟を決め、巴に木曽谷に逃げるように命じた。1月21日近江の琵琶湖畔粟津ではなく、1.2㎞離れた粟津が原の山中で範頼軍に襲われて討死した。
湖沿いの粟津の浜で討たれたとしたら、戦争の混乱のなかで遺骸を2㎞も山手まで運んで葬ることは不可能だと思います。
江戸時代近江守護の佐々木氏によって山手から現在の位置に移され、近くにあった今井兼平の歯かも同じく、膳所藩主本田氏の手で、唐橋に近い石山へ移されました。
JR膳所駅前の北口広場に、元禄4年(1691)1月松尾芭蕉の句碑が建てられていま す。「木曽の情 雪や生えぬく 春の草」
義仲・兼平主従が討死してから数年後、一人の尼僧が義仲の墓の側に庵を結んで菩提を弔うようになった。里の者が素姓をたずねても名も無き者と答えるばかりであった。そのために庵は無名庵と呼ばれていたが、尼僧は巴であることが分かった。その後、信州木曽で90歳の生涯を閉じたという。
後年その地には義仲寺が建てられた。粟津の合戦には出陣出来なかった山吹の塚も境内にあります。元大津駅前に山吹塚があり、改築のためこの地に移されたものである。なお大津駅前の桜は、毎年綺麗に咲いております。
現在も本堂や翁堂・無名庵・文庫などが残る。今も仲良く琵琶湖を望む景勝の地で眠っている。昭和42年(1967)11月に国指定の史跡となりました。
義仲のお墓の奥に芭蕉の墓がある。元禄7年(1694)に大阪でなくなった。 「骸は木曽塚に送るべし」と遺言し、義仲寺に葬られる。義仲を敬愛し人情深い大 津近江の地が好きだったので、芭蕉は、この地を選んだのでしょう。 境内には、芭蕉の辞世の句がある「旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る」をはじめ とした数多くの句碑があります。 「木曽殿と 背中合わせの 寒さかな」 「行く春を 近江の人と おしみなく」 また、芭蕉翁二百年忌供養塔と三百年忌供養塔も建立されている。
大津市馬場「義仲寺」義仲の墓
海野氏は義仲勢が滅びても頼朝をはじめ北条・足利・真田氏等に仕え騎馬弓射の道に長じて重く召抱えられた
松山興禅寺の義仲公墓所(木曽郡木曽町)
左から、樋口兼光、巴御前、義仲公、小枝御前、今井兼平
9代海野弥平四郎幸広は、寿永2年(1183)11月備中水島の合戦で、木曽義仲の大将軍として討死した。幸広の弟・海野幸長(のちの大夫房覚明)の存在を見逃してはならない。
頼朝には、かなりの数の文官の政治顧問がいたが、義仲には覚明がただ一人の文官であった。
康楽寺(長野市塩崎)大夫房覚明西仏の像
海野幸長(覚明)は8代海野小太郎幸親の二男として、保元2年(1157)の生まれ、俗名を海野蔵人通広と言った。京に上って院の御所に仕え、興福寺勧学院進士から文章博士となり、時の勢力者平清盛を筆誅(ひっちゅう)(文章でその責を問う)した名文は伊勢神宮の祭文に宝物として現存している。幸長は後に出家して南都興福寺の学僧として最乗坊信救(21歳)と称した。
興福寺(奈良市)
治承4年(1180)以仁王は、源頼政に勧められ平氏追討の令旨を出した。信救(後の覚明)が書いた「南都牒状」の返書は平清盛の怒りをかったことから、書いた信救は園城寺(三井寺)に逃れ、さらに東国に赴いた。その途中、平家追討のため東国から都へ攻め上って三河国府にいた源行家の陣中に加わった。その後行家が源頼朝と不和になると、信救は木曽義仲のもとで軍師となった。その後平家追討に功を上げ。大夫房覚明と称した。
大夫房覚明の名は『源平盛衰記』『吾妻鑑』『徒然草』にも、見られる。さらに近年『平家物語』の作者は信濃前司行長(大夫房覚明)とする説が有力で、中世文学史に輝かしい業績を残したことが窺える。
義仲には木曽谷時代はもちろん信濃から上野・越後にかけて勢力を拡大している期間、諏訪・戸隠・穂高・弥彦の大明神や善光寺などの大寺には関わることはなかった。
戦いの事のみで神仏崇敬の事績はほとんどなかった、と言える。それが越中から越前にかけての北陸一帯に進出したころになると、突然埴生八幡や白山権現などの諸社寺に、所領などを奉納して崇敬(すうけい)の誠を捧げるようになった。社寺に捧げた願文の筆者はすべて覚明で、覚明の献策によるものだった。記録でも覚明は義仲の手書きとか祐筆とされている。彼は書記ではあったが、書記以上のものでもあった。やがて北陸の武士たちは現実的利害だけでなく精神的にも強く義仲に結びついたのであった。苦境に陥った義仲から離反する武士が続出した時も、北陸武士の多くは最後まで離れず、ほとんどが義仲と運命をともにしている。
さて、義仲の上洛に最も不気味な存在は、京都への入口の喉首(のどくび)を抑える絶好の位置を占めた比叡山延暦寺だった。山門と呼ばれた延暦寺は平安時代から朝野(ちょうや)(朝廷と民)の尊崇の的で、数千の僧兵を擁する大軍団でもあった。しかも平家とは不和ではない。これと戦って、たとえ勝ったとしても、南都を攻めて東大寺・興福寺を焼いた平清盛と同じ非難を受けることは確実だった。山門を味方し中立を保ち入京への道を開かせることが最も肝要なのだが、こうした高等政策は、義仲や側近の武将にはとても不可能であった。このとき遺憾なく能力を発揮したのが覚明だった。
延暦寺(滋賀県大津市)
覚明は、まず義仲の軍が大義名分にもとづく所以を力説し、源氏と平家のいずれを選ぶかと迫った見事な牒状を山門につきつけた。
山門のような僧兵を擁する大寺院は、当時は、一山の大事は上層部だけで決めずに広く詮議と称する大衆討議にかけるのが普通であったが、そうした事情を覚明は熟知していた。
覚明が旧知を頼り様々な工作をした事が実を結び山門は源氏に同心すると決定した。義仲の前に入京への大道が開かれた。覚明の山門工作は大成功を収めたのであった。平家一門の都落ちの直接のきっかけになったのは、この延暦寺の源氏同心であった。
義仲の政治工作で成功を見たのは、後にも先にもただ、この時だけであった。覚明が義仲のもとを去った理由は明らかでないが、入京後の義仲はみじめな政治的失態を重ねた。これは覚明以外には、政治的感覚にすぐれた人が身近にいなかったことと関係があったことは確かである。
寿永3年(1184)義仲の討死後、大夫房覚明は、木曽の残党を率いて曲谷(現在の滋賀県坂田郡伊吹町曲谷)まで逃れて来て、信州より石工を呼び寄せて、30余の民家があった村中の人たち全員に、石臼造りの石屋の技術を伝授したとされている。(現在、石工は一軒のみ)
『和漢朗詠集』とはどのような書物なのか?
漢詩文の佳句を主体にした書物であり、歴(れき)とした日本の古典文学で平安時代に確立したとされる。
日本を代表とする「古典文学」といえば、平安時代に紫式部が書いた『源氏物語』、清少納言の『枕草子』次いで『伊勢物語』さらに紀貫之らが撰進した『古今集』と『万葉集』は人気が高まっている。
この頃に古写本が現在最も多く残されている作品は何だろうか?
『和漢朗詠集』なので、平安期の〈国風文化〉日本文化の基礎を理解するための必読書である。
応保元年(1161)に釈信救が著した『和漢朗詠集私注』の序(「和漢朗詠」という書名の注にあたる)で、佳句の句意や語釈、故事や典拠の指摘などが佳句の全体にわたってなされており、本格的な注釈書といえるものである。本集は漢詩文の佳句588首、和歌216首、計804首を上下二巻に収録されている。
信救とは、海野家の9代海野小太郎幸親の二男幸長として生まれ、木曽義仲の手書を務めた僧で、『延慶本』巻7「願書」にその経歴が語られる(牒状の場面、『源平盛衰記』巻29の埴生八幡への願書の場面)それによれば、儒者の家の出身で、蔵人道広といい、藤原氏の子弟学問所である勧学院で学んでいて出家して最乗房(源平盛衰記は西乗房)信救と名乗り、常に奈良に通っていた。高倉宮以仁王が挙兵して園城寺へ入り、園城寺から奈良へ協力を請う牒状を送った時、奈良の大衆が信救にその返牒を書かせたという(巻4・南都牒状)。その際、平清盛のことを「平氏の糟(そう)糖(こう)(値打ちがない)、武家の塵芥(ちんかい)(取るに足らない)と書いたためにその怒りを買い、奈良を逃げ出し、鎌倉へ下ろうとしたが、洲俣合戦に敗れて三河の国府にいた源行家と出会ってこれに仕え、行家の伊勢神宮への願書を書き、その後、行家とともに義仲のもとへ赴き、仕えた。
覚明の作とされる『仏法伝来次第』も、その来歴を語るが、それによれば近衛天皇の在位中に比叡山黒谷で出家し、北陸を修行した後に奈良へ入ったという。そこに『平家物語』の伝承が取り込まれたという。四部合戦状本巻7は覚明を「旧(ふる)き山法師」と、盛衰記巻29は、義仲が、信救を「古山法師ニ造(つくり)成テ」大夫房覚明と呼んだとする。一方『沙石集』(内閣文庫本巻9古典文学大系沙石集・補遺82)には、東大寺法師の信救得業は、朗詠注などをして才覚のあるものであったが、比叡山の一巻の真言陀羅尼を作ったので怒りを買い、東大寺を離れて田舎に住んだという。
義仲の死後の覚明の消息を伝えるものとして『吾妻鑑』がある。それによれば、前歴を隠して信救の名に戻り、箱根権現に身を寄せていた。建久元年(1190)5月3日条には、源頼朝の妹である藤原能保の妻の追善供養が勝長寿院で催されたが、その導師を信救が務めた、建久5年10月25日条には、同所で父源義朝と鎌田政清の追善供養が催され、その願文を政清の娘に依頼されて信救が書いたことが記されている。しかし、翌年10月13日条によれば、義仲の手書きであったことが露見し、箱根山中から外に出ないようにと命じられている。その後のことは不明であるが、元久2年(1205)2月に、大和の信貴山に参籠していた後醍寺の僧深賢(八帖本平家の所持者)を訪ね、自著の『白氏新楽府略意』の草稿を貸していることが、名古屋の真福寺蔵の同写本の奥書からわかる。
彼の著作として、ほかに『和漢朗詠集注』、『三教指帰注』、『箱根山縁起』が知られる。また、『壁山日録』応仁2年(1468)8月8日条によれば、京都の清閑てらには高倉天皇の描いた屏風とともに、覚明の書いた『大般若経』があったという。
延慶本・長門本・盛衰記には、覚明作の書状が五通載せられ、また覚明作と推定される山僧を揶揄(やゆ)(からかうこと)した『実語教』と陀羅尼が収められている。さらに、義仲の傍に仕えたその経歴と文才から、義仲関係の話、あるいは行家の洲俣合戦に関する話の形成に、覚明が関与したのではないかとの説がある。
なお、覚明が箱根山にいた建久4年(1193)5月には、曽我兄弟の敵討ちがあり、『箱根山縁起』と真名本『曽我物語』にも関与していたのではないかとの推定もある。なお、真宗系の『大谷本願寺通記』巻七は、慈円のもとで浄寛と称したが、その後親鸞に帰依して西仏と僧名を改めた。
〈鎌倉中央図書館蔵「平家物語大辞典」より〉
覚明は箱根山に隠れたが、比叡山の天台座主大僧の門に入り、71代慈円僧正の弟子となり、ここで範(はん)宴(ねん)(のちの親鸞聖人)を知る。建仁元年(1201)範宴と覚明は京都・吉水に下って源空(法然上人)の弟子になり円通院浄寛と改めた。後に親鸞とともに東国各地に布教活動をして「親鸞日行状記」を著わし孫の浄賀らに授けた。覚明はその後、名を西佛房と改めた。
康楽寺(長野市塩崎)
承元元年(1207)念仏禁止の法難に遭った親鸞聖人は越後流罪となった。建暦元年(1211)流罪赦免後、越後から東国(関東地方)に布教に向かうが、西佛房(覚明)は全て聖人と行をともにしている。越後から東国への旅の途中、たまたま信州角間(現上田市真田)にて法然上人の往生を知らせる使者に出会った親鸞聖人一行は、近くの海野庄(現東御市海野)に建暦2年(1212)3月、一庵を建立し報恩の経を読誦した。9月に親鸞聖人はこれを「報恩院」と命名した。その後、長野市長谷の地に移し、第2世浄賀(西仏坊の孫)のときに、康楽寺の号を許された。これが康楽寺の草創である。第14世浄教が永禄元年(1558)に塩崎の現在地に移した。
西佛房(覚明)は、延応2年(1240)1月28日に85歳で死去した。
西佛房終焉の地(長野市塩崎長谷観音前)
(5)善福寺と臼田文書
善福寺は現在も幻の寺と言われ、寺院の所在地がはっきりしていない。
東御市田中から島川原に向かって東に進むと、中途で所沢川を越える手前の地が善福寺の跡地と言われている。
田中善福寺・加沢善福寺・加沢前福寺と三つの小字が隣り合っており、寺が無くなっても、明治期には、その地が田中と加沢の境界だったと推測できる。
その附近で一番高い地形の土地が石積みされており、加沢村の一番地になっているので、地割りがこの土地から始まっていることから何か言われがありそうに思われる。
道路の北側に墓地があり、この南側が善福寺廃跡であろう。善福寺がいつごろ誰によって開かれたかは全く不明である。
歴史家一志茂樹氏は東部町調査の後の講演会で次のように語っておられた。
「鎌倉時代の開基ではないかと思う。加沢の方から入るようになっていて、加沢に近い所に別当寺があり、そこから「大門」という地名の所を通り、まっすぐ西の方へ四町(436m)位行った所(道の南側)に、奥の院らしい所がある。ここにあった大寺院は相当有力な土豪の寺で、小字善福寺にあったといわれる。一千巻にのぼる大般若経の中の何百巻が諏訪市四賀にある真言宗の佛法紹隆寺に保存されており、善福寺とはっきり書かれている。ことから善福寺は鎌倉時代の創建と考えられるが、誰が開基か開山かは、よくわからない」
大乗教典供養塔
また、高木喜一郎著「興善寺」には、善福寺について次のような記述がある。
「善福寺の創立は長久寺縁起には、天喜4年(1056)ころ地頭常田勘由左衛門が祈願所として建立、天文元年(1532)武田と村上合戦のとき兵火にて焼かる云々とあり、長久寺の前身とあり、この寺跡に「大乗教典供養塔」が存し、且つ蓮華台石並びに五輪等多数周辺に散在す」
ここに大量にある五輪塔や墓碑は、その年号をみると大部分が江戸時代のものである。しかし何百という墓石が土中に埋没していた。
穀城山金剛院長久寺 真言宗新義智山派 京都智積院末 本尊 大日如来
一方、東御市常田の「長久寺」の縁起や口伝によると、長久寺の前身である善福寺の創建は、長久2年(1041)と言われ常田氏の祈願所であったという。
戦国時代に武田・村上の合戦のとき兵火を受け焼失したといわれている。その後、常田氏は小字羽黒に堂を再建し善福寺創建の年号である長久をとって「長久寺」と改めたという。
戦国時代の合戦と言えば、笠原政康が小県に侵入して永享8年(1436)芝生田と別府の両城が落とされた事、応仁2年(1468)村上氏と滋野氏が領地をめぐって抗争した海野大乱、文明16年(1484)村上氏が佐久郡の大井政則を降した事、天文10年(1541)武田信虎が、村上・諏訪氏らと連合し滋野三家を攻めた海野平の戦い、天文17年(1548)武田信玄と村上義清が戦った上田原合戦などがあった。
他に善福寺に関する史料の一つは、
中世に善福寺という寺があったことの証拠が、現在の青木村村松の宝筐印塔の銘に「善福寺に寄進し奉る田畠の事、右寄進の田地は、小県郡浦野庄内(現上田市)村松藤次郎入道の在家を三分の二と水田三畝を寄進すること如件、貞治4年(1365)12月20日沙弥朝阿」と記録があるので、創建は鎌倉初期ころと推測される。
青木村観光協会提供
村松殿は真田昌幸の長女であり、信幸(信之)と信繁(幸村)の妹であることから著名であるので、小山田茂(しげ)誠(まさ)の正室であり別居の可能性も無いと思う。本来ならば「小山田茂誠館跡」とするのが妥当であろう。天正18年(1590)昌幸家臣となった小山田茂誠は小県郡村松郷(現在の青木村)を与えられ、村松殿は、ここに住んでいたので、そう呼ばれたという。
浦野庄内に住む法名朝阿という人が田などを善福寺に寄進したことが記されている。本来なら紙に書く寄進状を宝筐印塔の基壇に陰刻したのは多分この塔が沙弥朝阿の供養塔であり、生前の善福寺に対する信仰の深さを業績として記したものであろう。
善福寺は祢津氏所領の祢津小田中にあったのが、この善福寺と思われる。この浦野庄の代官が祢津一族の浦野氏であることなどから、その中にある村松郷が祢津氏所領に関わる可能性を示唆している。
天文10年(1541)に村上・諏訪・武田の連合軍が海野氏を攻めるまでは、塩原・田沢・奈良本は、祢津氏の所領であった。以後は村上氏の所領となり、塩田にいた村上氏代官の福沢氏の支配となったとされている。
やがて武田氏の支配となるが、武田氏滅亡後は、真田氏の所領となり一門の小山田茂誠に与えられたものである。
さらに善福寺に関する史料として群馬県の「下屋文書」(下屋学氏所蔵)がある。
「下屋文書」によると、善福寺には僧の大覚坊がいた。群馬県嬬恋村三原の下屋淡路が二所(箱根権現と伊豆権現をさす)参拝する人たちを引率してお参りと宿の世話をしていたが、その先達の権利争いが祢津善福寺の大覚坊と下屋淡路の間で永享9年(1437)11月8日に起こった。
下屋淡路と同族の下屋伊勢が得分をあずかったとあるが、平成18年渡辺麻里子氏から「身延文庫」(山梨県・身延山久遠寺宝物館に所蔵)で新発見された奥書を教示された中に、津金寺や善福寺の資料が含まれていた。
「法華文句第一抄」の元の本は、建長5年(1253)すでに善福寺にあり、さらに百年ほど後の文和5年(1356)にも快然の写したものが善福寺に残されていることがわかった。これによって善福寺の存在が永享9年(1437)の先達職の相論より180余年さかのぼることが判明したのだ。
寛保2年(1742)8月戌の満水で善福寺五輪塔などは、流失したという。その一部が所沢川などの氾濫によって下流に流されたものと考えられる。
附近の五輪塔は、昭和63年10月に加沢郷土史研究会員の方と当時の田中小学校5・6年生の皆さんによって整備供養された。
善福寺跡五輪塔
県道の南側に寺、北側に300基近い五輪塔と高い段上に日吉社跡があり、傍の地は、はっきりしてないが、奥書に「大坊北面」とあるので坊の存在も確かだと思われる。
佛法紹隆寺(諏訪市四賀)
また、享徳2年(1453)9月2日付きで、真言宗の佛法紹隆寺(現住職第38世宥昶)に信州祢津田中郷善福寺常任、善浄坊慶導・福泉坊永秀の書かれた「大般若経」が所蔵されている記録が残されている。
現在の小字小田中周辺には、社宮前・若宮・前田・樋の口・大長田・善福寺・大門崎など寺社や水田を示す地字がつながっており、祢津氏の代官支配地の小田中祢津氏は、ここに住んだという。
「大塔物語」(1400)の祢津越後守遠光を大将とする軍の中に、桜井・別府・実田・横尾・曲尾氏らとともに小田中氏が見える。また享徳元年(1452)「御符札之古書」に「小田中祢津代官……」とある。
祢津氏の一党に小田中の一族があり、加沢村の東山道沿いに勢力を広げ、やがて小田中村を形成し善福寺を建立したと言い伝えられている。
天文(1533)のころ、武田信玄が信濃の国を制圧したころに善福寺は焼失したと言い伝えられている。
また昭和44年の信越線複線化工事のときの発掘調査では、一番地附近の土地から溝遺構が確認されており、伊豆宮の湧水を導入した跡であろうと思われる。
天正10年(1582)5月に、信濃国小県海野庄賀沢村若宮にて、「やや子踊り」が踊られたことが、奈良の興福寺の僧、多聞殷英俊の記録した日記に記録されている。
「海野庄賀沢村若宮の拝屋に於いて、年8歳~11歳ぐらい、ヤヤコオドリという法楽これあり、カカオドリとも言う。一段いたいけに面白とあり」 この年の春3月に甲斐国で武田家が滅亡し、続いて織田信長が京都本能寺の変により失脚している。このように波乱に満ちた年の奉納であった。
賀沢村若宮に多数の民衆が参集し、ヤヤコ踊りを観覧した群衆はどのような気持ちで見ていたのだろう。佐久望月の方からも、祢津の方面からも集まった人たちは夫々に、これからの時代の推移をどのように想像したのであろうか。
この賀沢村には新しい芸能文化を取入れることができる民衆が住み、経済的にも豊かな日々を過ごしていたのであろう。間もなく豊臣の時代から徳川の時代になる時であった。
そもそも、田中郷の領主は、鎌倉時代前期に滋野氏から分かれた田中氏で、臼田にも所領を持つ鎌倉御家人であった。
弘安8年(1285)11月17日に起きた鎌倉を中心とする大騒動を霜月騒動というが、北条時頼や時宗が執権になったころから、御家人の中で最も勢力を有した安達泰盛とそれに同調した伴野氏らと一緒に臼田氏も加担したが敗れて、伴野荘主要部の地頭職を取り上げられ、臼田氏も所領を没収された。よって北条氏に仕える身となった。わずかに生活することができるごく狭い所領を鎌倉の近くで北条氏の目の届くところに与えられた。そこが帷(かたびら)郷(ごう)(横浜市保土ヶ谷区)ではなかったかと推定される。北条氏の滅亡・南北朝期の混乱で、関東の下総・常陸南部で転戦することになったが、結局、天正年代ころ茨城県稲敷郡江戸崎町羽賀(現在は稲取市)に落ち着くことになったという。
関東の合戦や所領維持に力を削がれ、信濃国の田中郷の管理経営が不十分になった。15世紀の半ばを過ぎたころには田中を手放し、代わって、ここに祢津氏が入ってきたと思われる。
善福寺が衰退に向かったのは、庇護者臼田氏が関東に移住したこと、代わって領主となった祢津氏も曹洞禅宗を篤信するようになったことによると思われる。
茨城県稲敷郡(いなしきぐん)江戸崎町羽賀に住む臼田喜平氏宅(現当主は臼田修氏)に、嘉禄3年(1227)から天正19年(1591)にかけて、総数53通の文書が所蔵されている。
この「臼田文書」は
臼田氏の先祖の滋野光直が小県郡海野庄田中郷の地頭頭を勤めており、子の光氏に譲ったものが、これらの古文書だと言う。それは寛元(かんげん)元年(1243)今から約770年も前のことであった。田中郷は貞治6年(1367)に武蔵国帷(かたびら)郷(ごう)(横浜市保土ヶ谷区)と共に臼田解(か)勘(げ)由左衛門尉(ゆさえもんい)直連(なおつら)に譲られたとある。
上杉氏は南北朝時代に関東の執事であった。上杉憲顕は足利兄弟に反抗し、正平6年(1351)信濃国に落ちた。
その後貞治2年に関東管領に復活して下向し、憲顕の子憲方は常陸国信太荘を領地としたので、その子憲定から嘉慶元年(1387)に臼田氏は布佐郷(茨城県稲敷郡美浦村)を与えられたのであろう。
臼田氏の移住したところは、茨城県の霞ヶ浦南岸の大変に開けた土地であった。
海野庄の田中郷(東御市田中)に所領を持っていた滋野氏の一族田中光(みつ)氏(うじ)は、寛元元年(1243)10月6日に自分の所領を分けて子供に譲り与えた。
長男の経(つね)氏(うじ)、次男の景光(かげみつ)、浦野氏の女房になった女の子、孫の増御前と呼ぶ女の子、小野氏から嫁いできた光氏の妻、それに母の西妙(光氏の父滋野光直の妻)に、次のように譲り与えた。
• 嫡子経氏 田中郷を譲るに当って、代々家に伝わっている下文(院庁・
将軍政所などから下付された証文)2通、
父光直から貰った譲状1通、祖母西妙から貰った譲状1通
• 子息景光 小太郎屋敷と田1丁
• 浦野女房 宮三入道屋敷と在家つきの田6反(没後経氏知行)
• 孫の増御前 藤入道在家と在家つきの田6反(没後経氏知行)
• 小野氏 父道直の屋敷「堀の内」と内作田2町3反(没後経氏知行)
• 西妙 父光直の屋敷と作田および光直譲状
滋野光直(妻は西妙)――田中(海野)四郎光氏(妻は小野氏)――滋野左衛門尉経氏(道阿)弟二男景光・妹長女浦野氏の妻・弟三男光直――滋野経長(妹増御前)――□――臼田四郎左衛門尉重経(宮一丸)弟宗氏――臼田四郎左衛門光重(沙弥至中)――臼田勘解由左衛門尉直連(妹大熊氏の妻)――臼田勘解由左衛門尉彦八滋野貞重(鶴宮九、沙弥定勝)――□――臼田勘解四右衛門尉小四郎貞氏――臼田藤四郎政重と続き地域で活躍される。
年号 | 西暦 | 関係事項 |
---|---|---|
寛元2年 | 1244 | 12月30日将軍藤原頼嗣から滋野経氏地頭職の安堵状を下付されている |
建長6年 | 1254 | 11月5日鎌倉幕府将軍藤原家政から左衛門尉滋野経氏に地頭職の安堵状を下付されている |
永仁3年 | 1295 | 10月13日鎌倉幕府執権北条貞時から安堵状、望月神平六重直が海野庄鞍掛条賀沢村の内、田6反・在家一宇を小田切兵衛次郎から買い取る |
永仁4年 | 1296 | 3月11日望月重直は伯母「尼道しょう」から海野庄三分条今井村の内、田1町1反、地頭職を譲られる。田在家望月左衛門重能の譲状並びに御下文相添えて甥の望月神平六重直に永代譲る |
延慶2年 | 1309 | 3月3日望月重直は海野庄鞍掛条加沢村の内、田を娘「媛夜叉」に譲る |
延慶3年 | 1310 | 3月7日鎌倉幕府から左衛門尉滋野経氏の田中郷の内田10町と在家42宇を滋野経長(法名道阿)に領知せしむべき安堵状を下付されている |
応長元年 | 1311 | 2月9日武蔵の国帷の郷(現横浜市保土ヶ谷)の内、名田6反・在家一宇、信濃の国の田中郷を孫の宮一丸に領地を譲られた |
正中3年 | 1326 | 3月25日幕府金沢貞顕が臼田四郎重経に領地3分の1を変換される |
嘉歴3年 | 1328 | 諏訪上社5月会御頭役結番下知状に、共の庄桜井・野沢・臼田郷は丹波前司跡と記してる |
嘉歴4年 | 1329 | 諏訪頭役結番帳に海野氏が浦野氏の本拠地の隣の古泉庄や、青木峠を越えて会田地方まで勢力範囲とした |
元弘3年 | 1333 | 10月28日国司清原直人より、海野庄鞍掛条加沢村の土地の安堵を申請して、承認される |
建武3年 | 1336 | 8月5日足利幕府によって安堵される |
観応2年 | 1351 | 海野庄田中郷の内 田在家 田3町5反・在家3軒を永代叔父宗氏に、大熊の女子に田5反・在家1宇、但し没後は叔父宗氏知行す、もし宗氏に子なき時は、惣領(家督をつぐべき家筋)の子孫に返して欲しい |
嘉慶元年 | 1387 | 滋野勘解由左衛門直連は上杉憲顕の孫上杉憲定(光照寺殿)から常陸国信太荘布佐郷を宛がわれる |
正平9年 | 1354 | 2月23日臼田四郎左衛門尉光重が上総国与宇呂保の地を所望し、上杉憲顕が承知された |
貞治6年 | 1367 | 沙弥至中なる臼田四郎左衛門尉光重から滋野勘解由左衛門直連に田中郷と帷郷を譲る。但し没後、鶴宮丸に永代譲り渡す |
応安元年 | 1368 | 3月23日時の幕府(将軍足利義満)から知行安堵の御教書下付 |
応永32年 | 1425 | 貞重から孫の小四郎貞氏に次通り譲る。田中郷・惣領職定勝知行分 田畠・在家等武蔵国師岡保小帷郷の内、岸弥三郎入道作本町6反・在家1宇等 |
文安3年 | 1436 | 政重 上杉憲景より遺跡を譲られる |
天正18年 | 1590 | 秀吉の関東進攻は南常陸も一変させ、兵農分離が進んで羽賀に館をおいた臼田氏は、そこを離れた武士身分になろうとせず、ついてそこに土着する道を選んで現在に至る |
茨城県臼田修家
(6)如仲天誾と興善寺
「日本(にほん)洞上聯(どうじょれん)燈録(とうろく)」によると、如仲天誾(じょちゅうてんぎん)は海野氏の一族で、貞治(ていじ)4年(1365)9月5日に生まれ、5歳の時に母を亡くし、9歳のときに伊那谷上(うわ)穂(ぶ)山(駒ヶ根市赤穂町白山天台宗光前寺)の恵(え)明(みょう)法師のもとで学んだ。『法華経』の「成物己来甚大久遠」という一節に疑いを持ち始め、密かに禅宗の寺を慕(した)って、上州の吉祥寺(群馬県利根郡川湯村臨済宗鎌倉建長寺派)大拙祖能公の門に入って髪を剃って僧侶となり、仏道の道を歩み始めたという。
光前寺(駒ヶ根市)
その後、越前(今の福井県)坂井郡金津町御簾(みず)尾(お)平田山龍沢寺(りゅうたくじ)を開山した梅山聞本(ばいざんもんぽん)(美濃の生まれ)を訪ねて厳しい禅宗の修行を極めた。応永10年(1403)に師の梅山は如仲に「この上は、深山幽谷に籠り草庵を結んで長養するがよい」と勧めた。
如仲天誾派略系譜
龍沢寺を去って近江の国(今の滋賀県)に南下し琵琶湖の北辺・塩津の祝(のろい)山(現在の西浅井町祝山)に入って洞(どう)春(しゅう)庵(あん)をかまえて世間から離れて修行に専念すること3年に及んだという。
そんな如仲天誾の徳風を聞いて、多くの学徒が、その元に集まった。そこで弟子の道空に修学を譲り、応永13年(1406)に、その東方の余呉湖の東約5㎞の丹生川菅並(現在の長浜市余呉町菅並)の山谷が中国五台山に似ているとして、寺を移建した。白山妙理権現より塩泉を施されたことから、塩谷山洞(どう)寿院(じゅいん)と号して開基した。
洞寿院は安土桃山時代には、朱印寺となるなど格式の高い禅寺で、慶長10年(1605)徳川秀忠から、ご朱印地として30石の領地と葵の紋章を寺紋とすることが許された。また天明8年(1788)住職が京都霊鑑寺の戒師を務めて以来、宮家の尊崇を受け、菊の紋章を本堂につけることが許された。
塩谷山洞寿院(長浜市)
遠江(今の静岡県)周知郡飯田城主に山内対馬守崇信(たかのぶ)(法号崇信寺(そうしんじ)玉山道美)という地頭級の小領主がいた。遠く如仲の学徳を聞いて深く帰向し、応永8年(1401)崇信寺(同郡森町飯田)を開いて迎請(げいしょう)し開山した。
崇信寺(静岡県)
この崇信は信長・秀吉・家康に仕えて、山内家初代土佐藩主となった山内一豊の祖先であると言われている。
如仲は、此処に閑静安住の地を見出したと思ったのも束の間で、多数人々が訪れるようになると三度も北方6㎞余の橘谷(遠州一宮の神)の奥衾谷川の水源近い地に、応永18年(1411)橘(きっ)谷山(こくざん)大洞院(だいどういん)を開創し、開山には梅山を第一世と仰ぎ、自らは二世となった。
如仲庵跡
伝承によれば、院内の地を一時の庵室(あんしつ)とした如仲は、山内氏の外護により崇信寺を開いたという。 この場所は現在開発されてその跡に「如仲庵跡」の石碑を残すのみである。応永28年(1421)2月には総持寺(そうじじ)の40世となっている。
如仲天誾禅師画像
その後如仲は、正長元年(1428)に梵鐘を鋳造しているが、これを鋳造した鋳物師(いもじ)は一宮庄内、特に天宮(あまのみや)神社の周辺に移住して、太田川の川隈等に堆積する砂鉄を利用していた一族であった。梵鐘以下の寺院用鉄製仏具・朝廷や足利将軍に献納する調度品の外、色々な民需品を鋳造し、遠く近畿地方まで隊商を組織し全国的に売り捌(さば)いていた。
越前の平田山龍沢寺では如仲の師、梅山がなくなった後、住持(じゅうじ)が14年間も居なかった。檀家の人達は如仲天誾をはるばる遠州(今の静岡県)まで訪ねて龍沢寺の住持となって欲しいと懇願した。永享2年(1430)4月、如仲は檀家の人々の熱意に応えて龍沢寺の第六世となった。
龍沢寺(福井県)
廃(すた)れていた寺の建物を直すなど、梅山大和尚の教えを良く受け継いで龍沢寺の復興に尽くしたので、後の世になり平田山龍沢寺中興の祖と言われている。
龍沢寺に住持して8年、寺の復興も進んだので、永享10年(1438)寺を去って再び近江の洞寿院へ帰った。晩年には加賀の仏陀寺(ぶつだじ)にも住持した。如仲天誾は、永享12年(1440)2月4日に亡くなった。享年75歳であった。今も墓は龍沢寺にある。
門弟には英傑(えいけつ)が出て、それぞれ一派をなし、近江・東海3州をはじめ広く各地に繁延して太源門下梅山系の主流をなし、後世その門葉は大いに繁栄したという。
大洞院(静岡県)
橘谷山大洞院は、応永18年(1411)如仲天誾禅師の開いた寺で、将軍足利義持の寄進により、この地に禅の大道場が建立された。
梅山聞本禅師を勧請の開山として仰いでいる。
大洞院には森の石松(清水次郎長の子分)の墓がある。
「石松の墓石の注意書き看板」によると 面白いことに石松の墓は勝負事、ギャンブル好きな人に喜ばれ、困ったことに石松 の墓石を削ってそれを所有する人が多くて石が段々削られてしまい、蝋燭のように 細くなってしまった。2代の墓石も同じように削られて、現代は3代目の墓です。 この地方にはギャンブル好きで愚かな人が多いので特に困っています。迷信ではあ るがたまたま近くの浜松にある競艇・オートレース・パチンコなどで1千万円以上 も儲けた人もいたので、さらに人気が出た、宝くじで3億当たった人がいたとも聞 いた。そんなこと聞いてもあなた様は石松の墓の石を欠かさないで下さいよ。とに かくそんな状態ですので3代目の墓石は鉄の箱で囲ってあります。もう一度言いま すが石松の墓石を拝んだり、削ったりしてもご利益、功徳はありません、器物損害 の犯罪になります、それだけは頼みます。
如仲天誾禅師木造
曹洞宗寺数は、17,549カ寺、永平寺末2,027カ寺・総持寺末15,522カ寺の中で中通幻派8,931カ寺・大源派4,358カ寺の中、如仲派3,200余カ寺の末寺をもっている。その門末寺に火防守衛の総本山、秋葉総本殿万松山可睡(かすい)斎(さい)(静岡県袋井市久能)がある。
可睡斎は、曹洞宗屈指の名刹、およそ600年前の応永8年(1401)に如仲天誾禅師が、開山で東陽軒と名付けたのがその始まりである。
11代仙麟等膳和尚は、若い時、駿河の慈非尾村増善寺で修行をしていた。そのころ家康公(竹千代丸)が今川義元の質子になっていたのを、ご覧になって、「この若者は他日、必ず立派な方になる」と見込まれ、日夜人格の指導に専念。ある夜に、密かに竹千代丸を葛(つづ)籠(ら)に隠し、その後、清水から船に乗せ勢州篠島に渡り、暫く隠れていたが、遂に三州岡崎城につれ戻した。
その後家康公は次第に出世し浜松城主となるや、等膳和尚を招いて夜更けまで、旧事を語っていた席上でコクリコクリと無心に居眠りをする和尚を見て家康公は、にこりとせられ「和尚我を見ること愛児の如し、故に安心して眠る。我、その親密の情を喜ぶ。和尚睡如し」と言って、それ以来「可睡斎」と愛称せられ、後に寺号も「可睡斎」と改めた。
また家康の心を安らかにした旧恩に報いて、天正11年(1583)10月、駿河・遠州・三河の4カ国の総録司という取締りの職をあたえ10万石の礼をもって待遇された。
以来、歴代の住職は、高僧が相次ぎ、天下の「お可睡様」と呼ばれるにおよび、名実とも東海道における禅の大道場としての面目を充実している。
10万余坪の境内には、本堂をはじめ、御真殿・奥の院・経蔵・開運大黒殿・瑞竜閣・僧堂・位牌堂など壮麗な建造物が林間の中に連なっている。
また、四階建ての末雲閣や170畳の斎堂があり、150畳に及ぶ大書院の東側には、みごとな滝があり、その大庭園の美観は賞讃そのものである。
可睡斎(静岡県袋井市久能)
この末寺が、東御市和にある27代海野小太郎幸棟が開基の瑞泉山興善寺(海野宿の北方の丘)である。海野小太郎幸棟は、夫人が永正2年(1505)11月3日に没した翌年、永正3年夫人の菩提のため一宇を建立した。(これが興善寺という説がある、法名禅量大禅尼)開山は林英宗甫大和尚(可睡斎六世)、この林英は永正16年(1519)初代住職となり、在住すること14年間、享禄4年(1531)8月12日入寂。
海野小太郎幸棟は大永4年(1524)7月16日没し、法名は瑞泉院殿器山道天禅定門である。天文10年(1541)5月の海野平合戦に武田・諏訪・村上の連合軍に敗れ、29代海野幸義は神川にて戦死し、30代海野棟綱は上州に逃れ、ここに海野宗家は滅亡した。幸義の妹の子(幸義の甥)と言われる真田幸隆は、幸義の遺骨を葬った。これは大夫塚と言われる。また、赤石に仏堂(位牌所)を建てた。法名「赫□院瑞山幸善大居士と号す。その後、貞享3年(1686)火災のため建築物のすべてを焼失した。
それから20年ほどを経て、享保年間、名僧知識と言われた第13世泰音禅師のときに、檀家の協力を得て、現在の位置に本堂を再建した。この復興したときから、幸善寺を興善寺と改めた。
宝暦14年(1764)に全焼し、明治4年(1871)再度の火災に見舞われ、重要文献その他の貴重品の大部分が焼失した。
海野小太郎幸棟の碑は、享保20年(1735)11月本海野(国道18号線の信濃東部自動車教習所の東でレストラン真田の庄の裏側)に海野氏の供養のために郷里の人たちが追悼建碑したものであったが、平成3年に興善寺境内に移転され再建された。
海野幸棟の碑
興善寺山門
興善寺歴代住職
初代 林英宗甫 永正3年(1506)開堂、享禄4年(1531)8月12日寂
2代 含山輿白 永正16年(1519)開堂、天文2年(1533)4月寂
3代 用山光受 天文2年(1533)開堂、弘治元年(1555)6月寂
4代 慶山淳賀 弘治元年(1555)開堂、永禄9年(1566)寂
5代 昌山洞繁 永禄9年(1566)開堂、天正5年(1577)9月11日寂
6代 大英智撮 天正5年(1577)開堂、天正19年(1591)3月21日寂
7代 通山全達 天正19年(1591)開堂、元和元年(1615)2月15日寂
世外 林月白光 元和元年(1615)開堂、寛永10年(1633)寂
8代 不白三達 寛永10年(1633)開堂、寛永16年(1639)7月8日寂
9代 秀山連察 寛永16年(1639)開堂、5年間、寛永20年(1643)11月11日寂
世外 越 道 明暦3年(1657)まで
世外 喚 竜 明暦3年(1657)から寛文12年(1672)まで
10代 孝巖嶺中 寛文12年(1672)から貞亨4年(1687)12月16日寂まで、
貞亨3年全焼
11代 澄伝村竜 享保12年(1727)2月18日寂
12代 印泉嶺寅 享保21年(1736)小太郎碑建立(13代により)
13代 潮光泰音 宝永4年(1754) 寺院復興、6月1日寂
14代 曇庭祖門 明和3年(1766) 12月2日寂
15代 無門慧璞 宝暦13年(1763) 宝暦14年全焼、宝暦13年(1763)9月4日寂
16代 中興智鏡慧泉 寛政7年(1795) 2月22日寂
17代 景天庭嵓 寛政2年(1790) 寺院復興、8月29日寂
18代 巽堂泉随 文化5年(1808) 能州総持寺の貫主となる、2月2日寂
19代 緑戒歓随 文政11年(1828)3月30日
20代 素学智文 嘉永2年(1849)4月22日
21代 正瞳活眼 嘉永元年(1848)7月11日
22代 雲外玄竜 明治4年(1871) 本堂全焼
23代 道改仏眼 明治32年(1899)
24代 法通開闢黙室弘道 明治44年(1909)明治20年に本堂等再建
25代 秀岳宗俊 大正7年(1918)
26代 実明慧泉 昭和16年(1941)全国同宗15,000寺より宗務院特選議員に
27代 白翁慧鳳 昭和25年(1950)
28代 大応善弘 昭和19年(1944)陸軍少佐、ビルマにて戦死
29代 柴田善亮 平成29年(2017)4月9日午後4時29分死去 88歳
現在は、30世柴田善達禅師に及んでいる。
その間、幾多の名僧を出した。中でも18世泉随禅師は、能州総持寺(のちに鶴見に移る)の貫主となった名僧である。興善寺の山号瑞泉山。曹洞宗、本尊は釈迦坐像(像高90㎝)で右に文殊菩薩坐像・左に普賢菩薩像。家紋は州浜・六連銭。
興善寺末寺は、向陽院(丸子町塩川狐塚)・全宗院(上田市中吉田)・金窓寺(上田市諏訪形)・日輪寺(上田市横町)・大英寺(埴科郡坂城町)・天照寺(長野市篠ノ井小松原)。
歴代住職の代数と年代が前後する箇所が数か所あるが、原本の通り掲載した。
〈高木喜一郎著「興善寺」による〉
境内の敷地2,300余坪。本堂・位牌堂・庫裡・鐘楼・豪華な山門・豪壮な石垣。特に本堂の鬼瓦であるが、明治4年の火災のあと、同20年再建、80年ぶりで昭和38年屋根の葺き替え工事が行なわれたが、本堂の鬼瓦を下ろして調べてみると、高さ4.9m、底の開き4.54m、重さ1.9t、片方25個の組立て、普請に当った瓦職人も、長野県内にこれだけの大きなものは見たことが無いと驚いていたという。山門は、平成3年に再建された。
興善寺の石垣と山門
また境内には、多孔質安山岩でつくられた、高さ28㎝・底面46㎝の角型の石塔基礎が残る。これは昭和21年に海善寺跡の畑から出土したものである。文保(1318)の年号が陰刻してあり、鎌倉時代にあったと思われる廃海善寺の歴史を物語る貴重な資料であり、武田信玄がこの寺で武運を祈ったと伝えられている。
廃海善寺石塔基礎(左側の座禅堂の軒下)
また、御座石は、もと曽根公民館西方の沢田農道の路傍にあったが、平成2年11月に、土屋俊一郎氏の畑に保存されていたものを土屋氏の寄進により興善寺に移し安置された。
古文書によれば「南の累上に御座石あり、平石にして質、凡庸ならず、これ善淵親王、この石の上に立って遊観し給うと。ここより臨めば、小県郡の村落、半ば望観するなり」と記述されている。そのほかに庚申塔(明和4年)がある。
御座石
(7)一遍上人と海野常照寺
法然上人(1133~1212)の門下の一人、善慧房証空上人(西山派祖)の弟子であった聖達上人は、九州大宰府に住んで浄土宗を広めていた。
時宗の開祖一遍上人は、四国伊予(愛媛県)の豪族河野家に延応元年(1239)生まれた。仏門に入って聖達上人について12年の修行をつんだ後、故郷の道後(現在の愛媛県松山市)に帰り約8年間、半僧半俗の生活を送っていた。
一遍上人の叔父河野八郎通末は、承久の変(1221)に宮方に味方したために、佐久郡伴野庄(現在の佐久市伴野)へ流罪になり、この地で没した。
弘安2年(1279)の秋のころ、一遍は京都の因幡堂を出て、一大決心をして再度信濃の善光寺に詣で陸奥に向かう途中、叔父通末の霊を弔うために佐久郡伴野庄を訪ねた時、紫雲の立つのを目にして、大井太郎の館で踊り念仏を始めた。
この佐久の踊り念仏こそ、一遍の行脚遊行の中で広く知られた行脚である。現在も金台寺(佐久市野沢)の山門には「一遍上人初開の道場」の碑が建てられている。また同寺所蔵の「紙本著色一遍上人絵伝」には、一遍を中心に大衆の生き生きした念仏踊りのようすが描かれており、この金台寺本の一遍上人絵伝も、国の重要文化財に指定されている。
鎌倉末期から「阿」の着く法名を持つ人は、上田・小県地方に多くみられる。延慶2年(1309)臼田氏の田中経氏が「道阿」、応長元年(1311)長和町大門の宝篋印塔銘に肥前太守が「成阿」、建武3年(1336)『安保文書』の安保光泰が「光阿」、貞治4年(1365)臼田氏と関係ある青木村宝篋印塔銘に「朝阿」、国分寺の「明阿」、塩田庄の「像阿」、岩下氏の「重阿」、海野の「定阿」等々、時宗の信者であったろうと考えられる。
正応2年(1289)一遍上人の亡くなった後は、弟子の他阿真教上人(1237~1319)が教団を統率した。この一遍と真教上人の開いた念仏は時宗と呼ばれている。時宗の総本山は藤沢山清浄光寺(藤沢市西宮)であるが、この正式の寺名よりも、むしろ遊行寺の方が良く知られ親しまれている。時宗は鎌倉時代の新興宗派で、この派の寺院は県下においても、その数が極めて少ない。室町時代の信濃の時宗寺院に関する興味深い資料に〖遊行派末寺帳〗(京都七条道場金光寺旧蔵)がある。この帳面は、享保6年(1721)5月に遊行49代一法上人が弟子の長淳(京都荘厳寺位置堂)に命じて、古本より筆写させ、七条道場に納置せしめたものである。
これによると、信濃12郡は次の通りです。
三明寺(柏尾) 真邑寺(和久利) 勝名寺(賀佐)
西念寺(今井) 長泉寺(黒河) 永明寺(若槻)
安養寺(堀) 西蓮寺(椿) 青蓮寺(坂木)
称名寺(国分) 常照寺(海野) 十念寺(平原)
光福寺(大井) 金台寺(伴野) 長福寺(長窪)
光明寺(諏訪島) 西福寺(上原) 極楽寺(富田)
昌光寺(高遠) 願成就寺(小県) 十声寺(甲斐瀬)
金福寺(一南) 蓮花寺(小市)
現存する寺は金台寺(佐久市野沢)と十念寺(小諸市平原)の二カ寺である、他の21カ寺はすでに廃滅していたものと思われる。
金台寺は一遍上人ゆかりの寺で、文和3年(1354)遊行8代渡船は、この寺で百日の別時念仏を行っている。十念寺は無住で廃寺に近い、ただ平原念仏と称する二十五菩薩来迎会が現在も行われており、永正3年(1506)の勧進帳が現存している。
遊行藤沢両上人系図(彰考館本より)
初代一遍上人以来、信濃国海野常照寺は信濃で金台寺に次ぐ時宗寺院であったが、消滅した寺院の一つである。
『彰考館本遊行系図』(宗典下巻)には、仏天の遊行相続について、
「25代仏天(廿代御弟子元其阿)後柏原院即位廿年永正17年庚辰7月9日 於信州海野常照寺賦算34」とあり、また〖遊行藤沢両御歴代霊簿〗(宗典下)にも同様な記録がある。
さらに歴代遊行上人直筆の〖時宗過去帳〗僧衆の部の始に「他阿弥仏 遊行25代 永正17年庚辰7月9日始之」とあり、同じく尼衆の部の初めにも、仏天が自筆で記入されている。
遊行24代不外が永正17年(1520)7月9日海野常照寺で法会を行い、25代仏天は遊行を相続し、この寺でその地位に就いていることは事実であると認められる。
時宗遊行24代不外は、次代の遊行上人に予定した仏天を伴い、また遊行藤沢両大衆を率いて遊行を続けていた。その総数は決して少なくはなかったと考えられる。
越後の府中(上越市高田)称念寺・十日町の来迎寺等をめぐり、信濃川を坂上って、飯山を経て中野に至る。中野の高梨城に高梨摂津守を訪ねて一座の連歌を興行、中野新善光寺に参詣した。続いて黒川西念寺(牟礼村)を経て善光寺に参詣した。善光寺は宗祖一遍以来、歴代上人が一代一度の参詣をする寺と言われている所である。その後、海野に至っている。
〖御修行記〗によれば
「6月28日海野常照寺にて一会ありしに、祈る事なる成沢川もちかし、御祓川(みそぎがわ)、代々の尊像を常照寺にて画師に命ぜられて二幅に移しをかせ給ひて、賛金礼と云事を」として、一幅に自ら七言絶句の賛(さん)を書き、もう一幅は、二寮其阿(側近者の筆頭)に命じて七絶の賛を書かせている。さらに翌月7月9日に海野常照寺にて遊行相続の儀が行われたのであった。
不外は海野にて遊行相続後、藤沢上人となったが、帰るべき藤沢の道場、藤沢山清浄光寺が戦火に焼失したまま再興出来ない現状であるから、更に旅を続けなければならなかった。おそらく8月上旬まで海野常照寺に滞在し、甲州に向かったのであろう。
仏天は、第25代遊行上人として直ちに念仏勧進の旅に出た。
記録によると、信州から越中・越後奥州を広く巡化している。
このときの海野の領主は27代海野幸棟で、海野で遊行上人の相続の儀式が行われたという事は、ここ海野に遊行藤沢両上人会下(えげ)の大衆が集会したという事で、近国時宗寺院の僧達や信者たちが集まったということを意味する。
それは宿寺に、それだけの人々を受け入れる経済的余裕がなければならない。それは、その土地の人々の重い負担になったに違いなく、海野の土地柄が、そのような経済力をもっていたということにもなる。
領主海野氏の後援があったことは当然であろうし、遊行上人に対する信仰心も大きな原動力であっただろう。
相続の儀式と歳末別時念仏会を自分の領国、我が菩提所で修行してもらう事は、領主にとっても住民にとっても最も誇らしく願わしいことだったに違いない。
そのため次に述べるような競願がなされているのである。
不外が8月29日信濃から甲斐に移り、9月2日若神子(山梨県北巨摩郡須玉町)長泉寺についた時、信濃の伴野出羽守が一族の修理進を使者に立て次のように申し入れている。
「上人は、今年の歳末別時念仏会を、海野太平寺で行うと約束されている。
既に遊行相続の盛儀を海野常照寺で執り行われているのであるから、今年の歳末別時念仏会は、一遍上人以来縁故の深い伴野で是非修行されたい』と熱心に懇願している。
「海野太平寺」(現在の東御市本海野字太平寺、白鳥台団地)の名が出たことで、海野の地に時宗道場が二カ寺あったという事は、確かな事実だとも言われている。
不外は、海野から越中へ向かうとしていたが、越後の長尾為景(謙信)の父が越中に侵入し戦乱となっていた。この乱が治まるまでと、引き続き遊行を続けることになった。
小諸から野沢(長野県佐久市)にて、8月15日の中秋の名月を眺めて、
「あさかおや有明の月の花の宿」と詠み、甲州に向かい、同月29日に甲斐の国に入り、甲府の一蓮寺に滞在した。
一蓮寺は武田氏の菩提寺で、住持は開山以来武田氏ゆかりの由緒ある寺である。領主信虎(信玄の父)は不外に深く帰依し、その年の歳末別時念仏会を、ここで修行している。 永正18年(1521)8月23日、駿河今川の臣、高天神城主・福島正成が1万5千の兵を率いて甲州に乱入した。
武田信虎は、後生一大事の時と感じて不外を最後の十念の導師として一蓮寺に迎え、死を覚悟で駿河勢と戦い、11月23日完全勝利を収めた。不外は信虎を説いて3千の捕虜を解放して無事帰国させ、戦死者は。敵味方の区別なく遺骸を葬り、一大法要を行って自ら導師となって、その冥福を祈っている。武田信玄が誕生したのは、この戦勝の時であったと言われている。
不外・仏天の相続式から20年の後、不外を「後生一大事の導師」と崇めた武田信虎によって、同じく不外に帰依の誠を尽くした海野の一族は、海野平の合戦に敗れ滅亡させられているのである。このときの合戦で、寺院等は焼失したものと思われる。
時の29代海野当主幸義は、海野平の神川にて戦死し、父棟綱、甥(妹の子)幸隆は上州逃れ、羽尾(群馬県長野原町)城主羽尾家に難を避けた。棟綱の消息については、その後は不明となっている。幸隆は、箕輪城を経て風林火山の武田家の家臣となっている。弱肉強食とは、まことに無残きわまりない世であった。
〈「時宗教学年報第14輯 時宗教学研究所 時宗宗学林学頭橘俊道師著」より
筆者の住まいが白鳥台団地(大字本海野字太平寺)にあった昭和60年11月15日 に、 時宗宗学林学頭橘俊道師と教務主任中野清氏が海野宿を訪れた。海善寺跡・滋野神 社・興善寺・海野宿街並・白鳥河原・地蔵寺跡・白鳥神社など海野氏の歴史に関す る遺跡を前会長宮下氏とともに案内したことは忘れがたい思いである。 その後、 平成3年4月8日に海野史研究会で春の研修で遊行寺表敬訪問し金沢文庫等を視察し た。この藤沢市遊行寺は正月の恒例行事「箱根駅伝」のルート上にある。
海善寺から千曲川方面を望む白鳥台団地(原始林に近い分譲地)昭和38年10月頃撮影・画面右側が白鳥神社
海野宿周辺の略図
このように海野の周辺には、興善寺・観音堂・願行寺・赤石不動尊・太平寺・常照寺・八幡社・海善寺・法華寺・大伴氏の氏寺・白鳥神社・新海社等の沢山の寺院があったが、平将門・村上義清・武田信玄・徳川秀忠軍の戦場となり、大方の寺院は消滅したために、遺跡がわからず幻の寺院となっているものが多い。今後の調査・研究が待たれる。
遊行寺(神奈川県藤沢市)
(8)武田信玄と海野竜宝
北条氏との和議成立〈天文7年(1538)6月〉後の3年間は、武田信虎にとっては珍しく戦がない平穏な日々が続いた。
天文9年(1539)5月、24歳で諏訪氏を継いだ諏訪頼重に、信虎は同年11月娘祢々(ねね)(晴信(のちの信玄)の妹)を嫁がせた。
天文10年(1541)の晩春に始まった「佐久攻略」は信虎48歳、最後の合戦であった。
晴信21歳の初陣説は、このあたりから出ている。
「甲陽軍鑑(こうようぐんかん)」「武田三代軍記」には信虎・晴信父子の奮戦ぶりを克明に描いている。
信虎軍は一日に36の城を攻め落としたと伝わる。
武田軍の信濃侵攻は破竹の勢いで海野氏の領地にも攻め入った。
天文10年(1541)5月25日、29代海野幸義は海野平合戦で戦死し、幸義の父28代海野棟綱は真田幸隆を伴って上州へ逃れ、海野宗家は滅亡した。
その後、永禄4年(1561) 信濃の豪族海野氏の家名を滅ぼすことは忍びないと、海野幸義の女子を妻とした武田次郎信親(信玄の二男)は海野民部丞竜宝と名乗って、海野氏を継いだと言われている。29代海野幸義は20年前の海野平合戦で戦死していた。一方、信親の母は三条内大臣公頼女。天文7年(1538)生まれの竜宝は、生まれつきに目が不自由であったため、早くから仏門に帰依し信玄の近くに仕えていた。居館は、甲斐の城北の聖(しょう)道(どう)小路。所の人は「お聖道様」として敬っていた。また信親の兄は義信(長男)・弟は勝頼(四男)と盛信(五男)であった。盛信は仁科五郎盛信として「信濃の国」でも歌われる安曇野の仁科家を継いだ。
竜宝は、海野の旧臣80騎の将となり、海野城主となった。性格は穏やかで慈しみ深く、人々から敬愛されていた。竜宝の陣代として春原(小草野)若狭守隆在に奥座の家名と、百貫の知行から千貫を与え家老を務めさせた。また弟の春原惣左衛門は甘利左衛門の同心に召し加えられ、本地30貫を3百貫加増されたという。
その小草野若狭守の屋敷は、東御市県(瓜田団地から田中小学校の敷地を含む三分川までの地)に構えられていたという。
この地は、現在は県区であるが、昔人はここを奥座と称して夏目田組なれども本海野区に属していた。
奥座屋敷跡(この松は伐採されている)
この写真の松の木の根元には、祠が祀られ湧水が出ていた。
永禄10年(1567)10月に信玄の長男が亡くなった。二男の信親は盲目であったため、四男勝頼(麻績城主服部左衛門清信の娘が諏訪頼重に嫁ぎ湖衣姫を産んだ。その姫が信玄の側室となり勝頼が生まれた)が継ぐこととなった。
武田勝頼の代には領土を増やしたが、反勝頼派の新興家臣団の対立が表面化した。また黒川金山の枯渇など武田氏を取り巻く情勢は、長篠の合戦時期より困難になりつつあった。天正9年(1581)1月、勝頼は復権を賭け、真田昌幸に命じて韮崎に新府城の築城を始めた。勝頼はその年12月に本拠地を、躑躅(つつじ)カ崎(かざき)館(やかた)から新府城に移した。
翌天正10年1月、勝頼の義弟・木曽義昌が勝頼の課する重税に腹を立て謀反を起こした。織田信長はそれを合図に家康・北条らと四方から武田領に乱入した。織田勢の侵入を許すと、次々に家臣が離反した。織田勢は甲府にも押し寄せた。海野信親の身を案じた法流山入明寺(甲府市住吉、浄土真宗・本尊は阿弥陀如来・信親の墓もある)住職栄順は、海野城から信親を寺に迎えて隠まった。
勝頼は新府城に籠城しようとしたが、城が未完成であったことや城を守るだけの兵力も残っていなかったため進退に窮した。この時、昌幸が進み出て勝頼の退却先として天嶮の要害で知られる自分の岩櫃城を提案した。ところが、重臣や譜代の小山田信茂が「真田は信用できない」と進言したので小山田信茂の岩殿城を目指すこととなった。
勝頼らは3月3日早朝、新府城に自ら火を放って岩殿城に向かった。勝沼の大善寺の本堂に籠(こも)り、武田家の再興と武運を祈って通夜とした。7日勝頼らは引き続き岩殿城を目指したが、その時すでに城主小山田信茂は人質として預けていた母を秘かに連れ去っていた。9日になっても小山田信茂が現われないので怪しんだ勝頼は、岩殿城へ使者を出したところ、すでに笹子峠には小山田勢によって、勝頼を拒むべき固めていたため、勝頼は行き場を失った。
勝頼らは武田家ゆかりの寺、天目山の栖雲寺を目指し落ちて行った。古府中を出たときには一万の軍勢が、わずか50名の家臣と40名の女性・子供が従うのみだった。やむなく田野の集落まで引き返す。11日武田勝頼のわずかな家臣が織田軍の攻撃に対し必死の防戦で時間を稼いでいる間に、勝頼父子が自刃して果てた。
勝頼37歳、夫人19歳、嫡男・信勝16歳であった。
ここに名門甲斐武田家は、5百年で終焉した。
中央が武田勝頼の墓(山梨県大和町田野地区)
武田氏は滅亡の3カ月後に織田信長が本能寺で死ぬと徳川家康は武田主従の追善を祈って、この地に一寺を興した。寺は6年後に完成し景徳院(田野寺)といった。 この寺には、安永4年(1775)に建てられた勝頼夫妻・信勝の墓と最後まで勝頼に従った54名の位牌も寺に安置されている。
勝頼37歳支辞世の歌
「おぼろなる 月もほのかに 春がすみ 晴れていくよの 西の山の端」
勝頼夫人19歳辞世の歌
「黒かみの みだれたる夜ぞ はてしなき 思いに消ゆる つゆの玉のを」
また、小田原北条家を偲んで
「かえるかり たのむぞかくのことはを もちてさがみの 国におとせよ」
空を飛ぶ鳥があるならば、この武田家末路のようすを、私の実家である小田原北条家に伝えてほしい。
武田氏滅亡の報を聞いた海野竜宝は、天正10年(1582)3月に法流山入明寺(浄土真宗)で自害し果てた。42歳であった。住職栄順は遺骸を寺内に埋め、法号を「長元院殿釋潭竜宝大居士」を贈った。海野竜宝には男子1人と娘2人がいた。嫡子信道(道快)天正2年(1574)生まれで9歳であった。
祖母である三条夫人の縁故のある本願寺の顕如法王から顕の一字を与えられ顕了道快の僧名を賜わった。
武田の血筋が絶えるのを憂えた入明寺の住職栄順の計らいで、顕了道快は長延寺の実了師慶和尚の養子になった。
幼い顕了と母(竜宝室)は織田勢の捜索(そうさく)から首尾よく逃れ、長延寺領の信州伊那犬飼村に身を寄せた。
入明寺(甲府市住吉)
武田龍宝墓所(甲府市古府中町)
武田神社の西側を北に向かって行くと突き当りのところに小さな塔や仏像があり、竜宝の墓と伝わる。近在の人達は昔から「お聖道様」として大切に保存してきた。
この辺りが、かつて聖道小路という字名で、聖道の屋敷があったからだという。
天正10年(1582)3月11日武田勝頼・信勝父子が天目山で自刃、海野竜宝も甲府入明寺にての自刃し武田家は滅亡したが、武田家の血縁者で生き延びたものも多いと言われる。その中の一人に、海野竜宝の妹穴山梅雪夫人がいる。この妹は母が正室三条夫人であるので竜宝とは実の同母の兄弟である。
この梅雪夫人は、武田家滅亡後に髪を切り、見性院さまと呼ばれる尼となったのは42歳の時であった。見性院は、その後、下総国に住み57歳の時、徳川家康より5百石と現在の埼玉県うらわ市大牧の領地を与えられた。そして、江戸城北の丸に移された。見性院が北の丸に入ると大奥では比丘尼屋敷と呼ぶようになった。
ここで余生を過ごす見性院が66歳になった時、徳川二代将軍秀忠の側室(お志津の方)が、比丘尼屋敷に救いを求めてきた。秀忠の正室の恨みを受けて大奥にいられず見性院に相談のため、駆け込んできたという。
比丘尼屋敷の見性院は、大奥のもめごとの苦情相談の役目をしていたのだろうか。このお志津の世話を頼まれたのが竜宝の妹(見性院の妹信松尼)であったという。
信松尼とは、信玄と油川夫人との間に生まれた竜宝の異母の妹である。
信松尼は、婚約者であった織田信忠を総大将とする織田軍が甲斐へ攻める直前、八王子に逃れたのが於松(松尼)であった。
見性院は、お志津が江戸城から抜け出す手引きをして妹信松尼のいる八王子へ送り届けた。信松尼はお志津を現在の埼玉県うらわ市大牧の地主の家に案内した。
『うやまって申す祈願の事 南無氷川大明神
ここにそれがし卑しき身として将軍の御想い者なり
御種を宿して 当4・5月頃臨月たり
しかれども正室(御台)嫉妬の御心深く
江戸城 大奥(営中)に居ることを得ず
いま信松尼のいたわりによって身をこのほとりに偲ぶ
それがし全く卑しき身にして有難き御寵愛を破る神罰として
かかる御種を身ごもり乍ら住む所にさまよう
神明誠あらば、それがし胎内の御種男子にして守護したまい
二人とも生き全うして御運をひらく事を得
大願成就なさしめたまわれば心願の事必ずたがい奉るまじく候也
慶長16年(1611)2月 志津』
これは28歳のお志津の方が出産する3カ月前に埼玉浦和の氷川神社に安産祈願文である。お志津は、この年の5月7日に秀忠の三男を出産した。
竜宝の二人の妹、見性院と信松尼姉妹は秀忠の三男の養育の世話をした。この三男が14歳に成長した時、見性院の世話により信州高遠の城主・保科正光の養子となったのが保科正之である。
見性院は保科正之の栄達を願いながら、元和8年(1622)5月9日比丘尼屋敷で77歳の天寿を全うした。
お志津の方は、寛永12年(1635)9月7日病没、52歳。
身延山久遠寺に墓所がある。
保科正之は後に、高遠城から会津若松23万石の藩祖となって、寛文12年(1635)62歳で没した。保科正之の子孫会津藩主松平容保(かたもり)は、安政5年(1858)3月見性院ゆかりの大牧村の菩提寺天台宗清泰寺に廟所を建てた。法名は見性院殿高峯妙顕大姉。
信濃国小県郡海野の「姫宮」の地名と祠は「善光寺道名所図絵」にも記録されて いる。国 道18号線の海野地籍に、レストラン「キャロット」の西側の道を、赤石 不動尊に北へ向かって200mほど右側に「姫宮」の祠があった。甲斐武田信玄の二 男竜宝を父として、海野左京太夫幸義公の娘を母として生まれたのが、滋野勘七郎 海野信音武田太郎能登守「蓮寿院殿光本鏡大居士」海野信音であった。海野信音の 室は、甲斐の馬場家の娘だったが実家の馬場家も武田家とともに滅亡した。天正 10年(1582)3月叔父武田勝頼が天目山にて自刃し、父海野竜宝も法流山入明寺に て自害したことから、海野信音夫妻は、天正10年(1582)4月3日海野居館(姫宮の 東側)にて自害した。室の法名は「蓮池院殿好厳貞鏡大大姉」で通称「くろ姫」御 姫様として赤石に祀られた。「姫宮」の話は悲話として伝承され、現在「姫宮」の 祠は海野宿資料館に移設されている。
海野宿資料館に移設の「姫宮」祠
その年の6月2日、本能寺で織田信長が明智光秀に討たれて没すると、逸早く甲府へ侵攻した徳川家康は、武田の旧制・旧法を尊重するとの触れ書で武田旧臣の懐柔を始めた。
実了上人は、伊那から顕了道快(信玄の孫・竜宝の遺児)を連れ戻し、尊体寺で徳川家康に拝謁させ。ことの次第を訴えて長延寺再興を願い出た。
家康は顕了の住職就任を条件に寺の復興を許可した。この時顕了は14歳であったため、入明寺和尚実了上人が後見人となり長延寺は再興されたという。
慶長8年(1603)に顕了は、実了の後を継ぎ長延寺(現在光澤寺)第二世となった。
顕了道快は、その後、甲斐で活躍した元武田家臣だった土屋長安とも面識があったと考えられる。経理に秀でた土屋長安は、家康に仕え大久保忠隣の与力に任じられ、以後、大久保長安と称した。甲斐の復興を指揮し堤防復旧や新田開発、甲斐の金山採掘などに尽力したと考えられる。
天正18年(1590)徳川家康が関東に入ると、翌年、八王子8千石が大久保長安の領地となり、八王子の開発が始まった。また、大久保長安は徳川家康に対して武蔵国の治安維持と国境警備の重要さを説き、八王子5百人同心創設を具申して認められられ、ここに旧武田家臣団を中心とした八王子5百人同心が誕生した。
慶長4年(1599)には関ヶ原の戦いに備えて同心を増やすことを家康から許され、八王子千人同心となった。
慶長5年(1600)には、武田信道(道快)に子、武田信正が誕生している。
慶長18年(1613)4月25日、69歳で大久保長安が亡くなった後、金山産出の横領の疑いを掛けられ、5月17日に大久保一族や腹心は捕えられた。処刑は7月9日。
また、武田信道や松姫を保護していたことから、武田氏が再興を企んでいるとも疑われ、武田信道と子の信正は常陸笠間城主・松平康長丹波守の下に預けられたあと、元和元年(1615)武田信道と信正(教了)の親子は伊豆大島への流刑となった。 時に顕了42歳であった。武田信正の妻「ままの局」と家臣9人と共に伊豆大島の野増に居住し、伊豆の武田氏と呼ばれていた。
伊豆大島には、現在も供養塔や屋敷跡が残っているという。
話はさかのぼるが、永禄10年(1567)武田信玄の6女松姫(海野竜宝とは異母兄妹)7歳と、織田信長の長男奇応丸10歳との政略結婚の婚約が成立したが、この婚約は、松姫12歳の時に解消された。 松姫は兄勝頼を心の底から思ってくれる真田昌幸・信繁(幸村)父子の心が頼もしかった。
信玄は、かつて跡部勝資・真田昌幸の二人を「わしの両目である」と高く評価していたという。真田信繁が恋慕の情をいだいた松姫も新府城落城後-甲府入明寺-開桃寺-恵林寺-向獄寺-武蔵国への流転の旅を続け、東奥山・田無瀬と険しい山道を通り抜け八王子金照庵へ向かった、敗走の旅を続ける松姫に対して、絶えず忍びの者を送り安否を気遣い情報収集をしていたのが真田信繁父子であった。真田信繁は大阪夏の陣徳川家康の本陣めがけて突撃して、元和元年(1615)5月7日、49歳で戦死した。(真田勢32人戦死・敵首29)
松姫は、信松尼として元和2年(1616)4月16日に56歳の生涯を閉じた。
武田信道は、寛永20年(1643)3月5日に赦免の日を迎えることなく伊豆大島で世を去った。享年70歳。子の武田信正もすでに43歳、父顕了が島に流された歳に近かった。20余年が過ぎ、信正66歳、流刑生活は48年に及んでいた時、上野寛永寺の法親王、公海上人の仲介などもあり、徳川家光公13回忌を契機に将軍徳川家綱より寛文3年(1663)3月赦免され、江戸に戻ることができた。寛文12年(1672)小山田信茂の娘・香具姫を母に持つ平藩主・内藤忠興(内藤帯刀忠興)の娘(17歳)との間に6代武田信興を設けた。
武田信興が最初祖父内藤忠興の元で生活をしていたが、父武田信正が死去したのちは 柳沢保明(のちの柳沢吉保)の世話になって暮らした。そして、柳沢吉保に推挙された信興は、元禄13年(1700)12月27日に徳川家臣として復帰し、甲斐・八代郡内に5百石を与えられ、寄合に所属する旗本となった。翌元禄14年(1701)1月には、徳川綱吉に拝謁。9月には表高家に列することになり、江戸城・幸橋門外に新たに宅地を与えられ、宝永2年(1705)8月19日には、領地を相模国大佐郡と高座郡内に移された。
武田信興は、元文3年(1738)7月9日死去、享年67歳。芝の西信寺に葬られた。
長男7代信安が家督を相続して、8代信明―9代護信-10代信典-11代信之-12代崇信-13代信任-14代信安-15代昌信-16代邦信-17代英信と、その子孫は、武田信玄以来の血脈を保ち、現在17代武田英信氏(嫡流武田氏)が東京に在住されている。(長男の場合は「信」を下に、養子・2~3男は「信」を上に)
昭和53年4月23日、海野宿公民館で100余名を超す会員等に御参集いただき、武田家第15代当主武田昌信公を招いて「我が武田家の系譜を語る」と題して講演をいただいた。
大正3年(1914)大正天皇即位に際し、戦国の武将従四位下大膳大夫武田信玄の民生 上の功績が認められ従三位が贈呈された。しかし、この位記宣命は、その正統の子 孫に渡されることになっている。ところが、この事を聞いて、全国の武田信玄の後 裔を名乗る人が多く表れて、当時の添田敬一郎山梨県知事は困惑された。そこで知 事は、提出された資料を当時の東京帝国大学史料編纂所に送って判定を依頼した。 調査検討した結果次のことが実証されたという。 長男太郎義信は、幽死、2男は竜宝、3男は17歳で早世、4男が四郎勝頼・5男が盛 信は、天正10年(1582)高遠城に敗死、従って信玄公の男系として天目山の難以後 に生存していたのは竜宝と7男信清の二人である。竜宝は、半僧半俗として天目山 の難に際し、甲府入明寺に自殺したが、その子顕了道快は、甲府長延寺に隠れ信長 の目を逃れた。その子信近は赦免され、また、その子信興は、幕府に仕えることと なり武田家は復興、その子孫伝承して現当主信玄公14世の孫武田信保(信安)氏 に、位記宣命が下賜された。
天目山の難を逃れた末子の信清(母は祢津氏の出身)は、高野山に潜み、のち越後の上杉昌勝(夫人は信清の姉)の保護をうけ子孫相続して米沢に住んでいる。
(9)海野関連支族の不思議
海野一党は不思議に盲人・医術・妖術などと関係が深く、事例を示すと
1 貞保親王が眼病にかかり鹿沢温泉で湯治により、目の痛みは治ったが、
視力は恢復せずに盲人になった。
2 滋野望月氏は祖神として両羽神社(長野県東御市下之城)を祀っている。
この神は京都山科にもあり、盲人たちの祖神である。
3 滋野祢津氏は館の裏山に祖神四宮権現(長野県東御市祢津)を祀っている。
この四宮権現も京都山科四宮河原に盲人蝉丸を祭神として祀られ、
やはり盲人たちの祖神である。
4 近世に上田房山村(上田市田町)の弁天祭日に、小県一帯の琵琶法師や芸能に
たずさわる盲人が集まって種々の相談をしていた。
その管理をしていたのは深井氏であり、この深井氏は海野氏の重臣で、
家伝では貞保親王の妻はこの家の女であるという。
5 信玄の二男竜宝も盲人であり、海野二郎と称している。
さらに海野一党は修験・巫女との関係が深い。
1 滋野望月氏は巫女・舞太夫・修験山伏等を支配していた。
望月盛時が川中島で戦死した。
その後、千代女は祢津村に土着して武田信玄から
甲信両国の神子頭を命ぜられて巫女を支配したという。
2 上州吾妻郡に住んだ下屋氏は、北上州の修験道の支配権をもっていた。
3 祢津氏は鷹匠として著名であった。諏訪大明神絵図詞によると、
平安末期に活躍した祢津神平貞直は大祝の猶子となり、
東国無双の鷹匠であった。鷹匠は狩や鎮魂などの呪術と関係が深い。
4 海野氏の氏神である白鳥神社はオシラサマともいわれ、マタギ(猟人)や
修験の神でもあった。また滋野氏はいつか諏訪神を奉ずる神党となり、
諏訪の神人として「甲賀三郎」の伝説にもなった。
5 海野氏は医術とも関係が深い。大奥の医師に望月氏があり、
草津温泉の領主が海野系湯本氏であったのも関連があるかもしれない。
6 祢津には「ののう巫女」といわれる巫女の集団が明治初期まで存在した。
信濃巫女の発祥の地として、徳川三百年を通じて全国の巫女を養育する。
大規模な巫女村であった。 〈小林計一郎著「真田一族」より〉
史実に登場する「ノノウ」で有名なのは、武田信玄に仕えた「歩き巫女」の集団で ある。歩き巫女とは各地を回って芸や舞を見せ、呪術で口寄せを行い、ときには男 性に身を任せることもあって、いわば流浪の遊女でもあった。巫女の歴史は古く、 祢津の巫女たちを「ノノウ」と呼ばれた。神様や仏様のことを「ノノサマ」言い。 祖父母や父親を尊敬する意味で「ノノウ」と呼んでいた。神降ろしをする媒霊的存 在で、「口寄せ」を行った。武将や庶民もいろいろな困難な事に遭遇と巫女を信仰 し心の支えにしていた。それは戦いに駆り出される人々の死の恐怖を和らげ、あわ せて勝利の革新や予言を得られた。巫女は予言者であり、まじないや祈祷などもお こない、医療技術にまでも担っていた。 戦国時代には孤児・捨て子・迷子が大量に発生した。その中から心身ともに優れた 美少女のみを集めて歩き巫女に仕立て、隠密として各地に放ったのがノノウであ る。信玄のノノウの要請に応えたのは信州北佐久郡望月城主盛時(川中島の戦で戦 死)の若き未亡人、望月千代女だった。千代女の家は甲賀流忍術の流れを汲む名家 で、望月家の血族であり、信玄の甥が入り婿になったという。 信玄は千代女を「甲斐信濃両国巫女頭領」に任じ、信州小県郡祢津村の古御舘に 「甲斐信濃巫女道」の修練道場を開き、年間に、200~300人を越える少女たちに 呪術・祈祷・忍術・護身術やさらに相手が男性だった時のために性技まで教え込ん だ。祢津は信濃巫女発祥の地であり「巫女養育日本一」の地であった。歩き巫女に は国境がなく、全国どこにでも自由に行けたため、関東・畿内、東北北陸を回って 口寄せや舞を披露し、時には売春もしながら情報を収集し、ツナギ(連絡役)の者を 通じて信玄に随時報告していた。 〈百科事典「ウィキペディア」より〉
(10)夏目漱石と明治期の我が街
夏目漱石の先祖発祥の地は、東御市であった。
夏目漱石は本名を金之助といい江戸牛込馬場下横町(現在東京都新宿区喜久井町)に明治元年2月9日、父夏目小兵衛直克(江戸町奉行支配下の町方名主)・母千枝(四谷大番町質商鍵屋福田庄兵衛の三女)の五男として生まれた。
一歳で塩原昌之助・やす 夫妻の養子に出されるが、夫婦が離婚したため、9歳のとき塩原家に籍を残したまま生家に帰った。
漱石14歳のとき明治14年1月21日に母千枝が54歳で死去した。
明治21年1月、夏目家に復籍して夏目金之助となった。
この復籍に関する塩原家からの養育費の請求の際の領収書や、養父との金銭問題で漱石との関係を絶つことを約束した塩原の「離縁誓約書」などが、没後100年を迎えて、その資料が横浜市の神奈川近代美術館で「100年目に出会う夏目漱石」展が開催された。開催は平成28年5月22日までであった。
22歳の時、正岡子規と知り合って文学に親しみ、俳句をつくるようになり「漱石」と署名した。
明治29年6月に貴族員書記官長中根重一の長女鏡子と結婚して熊本市内に新居を構えた。漱石が第5高等学校(現在の熊本大学)に教授として赴任してから120年を超えた。5番目に住んだ内坪井家(熊本市中央区内坪井)は現在記念館として公開されている。
翌年6月29日に父小兵衛直克が享年80歳で死去した。
明治36年3月から39年12月まで東京都本郷区駒込千駄木町(現在の文京区向丘2-20-7)に住んでいたが、その家は愛知県犬山市の「博物館・明治村」に移築されて保存されている。
明治38年~39年の漱石の作品は「我輩は猫である」「坊ちゃん」続いて「草枕」等々が有名であった。
明治40年9月29日に牛込区早稲田南町(現在の新宿区早稲田南町)に転居が決まる。敷地面積360坪・平屋60坪の借家で、以前医者が診療室に使っていた和洋折衷の建物であった。玄関を入って右奥の10畳の洋間には絨毯(じゅうたん)を敷き書斎とし、亡くなるまで9年余り住み続けた。通称「漱石山房」と呼ばれ、門下生が集まり「木曜会」を始めた。その地に、生誕150年となる平成29年9月に開館予定の記念館の起工式が平成28年5月11日に行われた。
大正5年5月から「明暗」を朝日新聞に執筆連載中に度々の胃潰瘍が悪化し、12月9日6時45分に死去した。享年49歳。12日に青山斎場で円覚寺派管長釈宗潼導師により葬儀が行われ、雑司ケ墓地(豊島区南池袋4丁目)に埋葬された。
戒名「文献院古道漱石居士」妻の戒名「圓明院潰操浄鏡大姉」
東京の地下鉄東西線早稲田駅の地上に出ると、交差点の角から「1678年創業」と書かれた看板のある「小倉屋」という酒屋がある。昔、堀部安兵衛が枡酒を飲んで敵討ちに向かったという有名なところだという。
その酒屋のすぐ隣が漱石の生家(現在の新宿区喜久井町)で、生誕100年を記念して建てられた黒い石碑があるが殆んど人は知らないので見過ごしている。〈日本近代文学館専務理事 中島国彦氏による〉
文豪夏目漱石が死去されから本年(平成28年)が丁度100回忌にあたることから、夏目家の先祖発祥の地を考察したい。
長野郷土史研究会誌『長野』第97号(昭和56年5月発行)に、「篠ノ井二ツ柳の山城が夏目氏発祥地」と題して次の文章がある。
「昭和15年ころ、滋野村の役場で郷土史の研究者でもあった柳沢平助氏から聞い た話に、夏目漱石の遺族から村役場へ『私共の先祖は貴村の出だというが、その昔 夏目氏がいたという事実があるかどうか』と照会があったという」と書いている。 明治4年の廃藩置県が布告された当時は、糠地村・井子村・原口村・別府村・中屋 敷村・片羽村・赤岩村・芝生田村・大石村および桜井村の10ケ村に分かれていた が、明治9年に10ケ村は合併して滋野村となった。その時の滋野小学校長が柳沢平 助氏で、この時「滋野村」と提案した人が、歴史を知る戸長清水七郎右衛門である と言われている。信濃国小県の祢津「ならはら」の地名から飛鳥「あすか」奈良の 都に出て、朝廷に仕えた人がいた。その人の名は楢原東人で、その人が平安遷都に よって平安京(京都)にうつり、滋野という地に住んで滋野氏を名乗っている。 このように奈良原も滋野も、その名は古から由緒深い名であった。
夏目漱石の父は、夏目小兵衛といい徳川時代に幕臣として江戸牛込区一帯を取り締まっていたという。
その祖は、信濃の国小県郡の地頭職で源頼朝に仕えた源国忠である、と夏目漱石の家に語り伝えられているという。
源国忠は清和源氏の源経基の次男満快から五代目の村上判官為邦より出て、更級郡村上村の人であった。為邦の子は国高で、その子が国忠で二柳三郎太夫と名乗っていた。
国忠は国平の父にして、文治5年(1189)7月、右近御大将源頼朝が奥州の鎮守府将軍藤原泰衡を征討にあたり、国平父子は、これに従軍した。その功績によって、国忠は小県郡海野庄夏目田の地を賜ったという。
臼田氏のあとに夏目氏が来て、海野・祢津・望月の滋野一族の監視役としていたのではないかとも言われている。
国平が右近将監に任ぜられて、この地に住んで、これより夏目氏と称した。
夏目氏は、鎌倉右大臣源実朝が建保7年(1219)に暗殺されて、鎌倉幕府の実権が源氏将軍の没落と共に北条氏に移ったので、その後は三河国幡豆郡六栗村(現在の愛知県)に移り、徳川家康に仕えた。元亀3年(1572)、三方ケ原の合戦で夏目吉信(国平より19代目)は戦死している。
この戦いで徳川家康が武田勝頼に散々な目にあい、命からがら浜松城に逃げ帰れたのは、この夏目吉信の手柄によるものであると伝えられている。
六栗村には今も、多くの夏目氏が現存しているという。
明治43年7月の漱石の日記に「田中」から上京してきた付き添い看護婦のことが書かれている。「蒟蒻(こんにゃく)をかえるため」附添看護婦を雇う、昨日長野から紺屋町(上田市)に着いた。
同年3月から「門」を朝日新聞に掲載を始めたころ、6月9日、東京内幸町の長与胃腸病院で胃潰瘍の疑いがあると診断され、18日から入院する。
「蒟蒻をかえるため」というのは、胃潰瘍の治療に熱い蒟蒻を腹の上に載せて温めることであるが、この治療法は相当に苦痛を伴うという。
翌月7月1日の日記には「今日より蒟蒻で腸を焼く、痛い事夥(おびただ)し」とある。
「紺屋町の会」は、看護婦の派遣をしている団体なのだろう。東京へ着いて翌日の初仕事が漱石の付き添いだったわけだ。
7日の日記に「附添看護婦に、どこかと聞いたら、小県という。上田から3里ほどにある田中という所の駅(当時の駅長は西田豊治郎氏であった)に親が勤めをしている由。生れは越後だそうだ」
13日の日記に「午前11時ころ看護婦鼻血を出す。汽車に乗ったためだろうという。看護婦云う、今日は祇園祭ですと。長野には祇園祭があり、町々から屋台を出して盛んなる由。東京にはないと教えてやる」
看護師の親は鉄道員で、転勤で田中の駅に勤務していたようだが、彼女には祇園祭りの印象が強かったのだろう。
蒟蒻療法は17日まで続いた。 〈中田敬三著「夏目漱石と信州」より〉
現在も、7月中旬の土曜日には、東御市田中商店街では祇園祭が盛大に行われている。
なお、祢津地区の祇園は、天明8年(1788)、東西両町より、竹飾り山車屋台・花笠童子の行列も繰出さていた。現在は、東西の喧嘩神輿で有名である。
この田中駅のことをいうと、明治16年(1883)10月太政大臣は、中山道幹線の建設を指令した。このコースは上野-熊谷-入山-岩村田-塩名田-田中-保福寺峠-岡田-松本-洗馬-木曽福島-中津川が計画されたが、「馬車の仕事を奪われる」「汽笛は人の命を縮める」などの反対意見がおこり、また難工事や東海道線に対して工事費用が倍もかかるという試算がだされ、ここに中山道鉄道は幻として消えてしまった。
難工事の碓氷峠をさけ、建設資材を直江津港に陸揚げして、明治18年直江津から上田まで鉄道工事が始まった。上田・軽井沢間の停車場予定地は、宿場として繁栄していた海野宿のすぐ北側に設置する計画で進められていたが、当時の海野近在は蚕種業が隆盛を極めており、「火車が通れば、その煙で桑が侵され蚕に害になる」と鉄道省役人が宿泊している宿へ鍬や鎌などの農機具を持って押しかけたため、設置は中止となった。第二候補地の田中は海野宿に比し衰退の傾向にあったので目立った反対もなく、明治21年12月1日に信越本線田中駅が開設された。
その頃、和(現在の東御市東上田)には松山犂製作所・児玉醤油味噌醸造所・東上館(製糸工場)があり、田中駅近辺には製糸工場・繭取引市場等もあり、群馬県嬬恋村の繭農家は地蔵峠や岡谷諏訪方面の製糸業者は和田峠を越えて馬の背や、また茅野方面の製糸場で生産された生糸は輸出のため田中の停車場から横浜港へ運ばれ、近くは丸子・望月・芦田方面の乗車客・貨物で活況を呈し、駅近くには運送屋の荷馬車・旅館・芸妓・料理屋等が出来て街は盛況を呈していた。
上記の松山犂製作所の創業者松山源造は、明治8年11月21日に生まれ、27歳の明治34年に双用犂(水平軸転型)が特許登録され、28歳の明治35年に小県郡和村(現在東御市和)東上田に「双用犂製作所」を設立し、現在は上田市藤原田に進出している。
このころの製糸業は次の通りです。
祢 津 祢津製糸場 代表柳沢秀作 創業 明治40年8月 釜数50 工女15
滋 野 清水社 〃 〃 26年7月 〃 14
和 東上館 代表大塚範吾 〃 〃 27年7月 〃 229 219
田 中 田中製糸場 〃 小林善太郎 〃 〃 28年3月 〃 4 55
〃 田中製糸場 〃 小林久吉 〃 〃 29年7月 〃 30 27
〃 富清館 〃 小林富作 〃 〃 38年7月 〃 162 51
〃 加沢館 〃 荻原改作 〃 〃 38年7月 〃 30 31
〃 渡辺製糸場 〃 渡辺今亟 〃 〃
〃 六友社 〃 大竹小太郎 〃 〃 41年7月 〃 65 65
上記の東上館(東上田製糸合資会社)は、大正7年に和より田中に移転し、田中駅の南側に工場を造り、田中繭糸㈱を開業する。翌年には大東繭糸㈱を開業した。
大正9年3月、岡谷市の山十製糸会社が田中の天神町(現在のブロンズ工業㈱)に田中製糸所を開業する。昭和3年に山十製糸会社が東上館を買収したが、翌々年12月23日に破産した。神栄生糸の子会社として田中製絲を設立した。行員1,100 人であったのが、新機械の導入により行員は800人となる。昭和19年には、オートメーション化により従業員は女子250人、男子50人で、その中の30%は町内出身者であった。昭和34年には神栄電機㈱田中工場としてコンデンサ製造を開始した。現在は「神栄キャパシタ」として、田中313(☏0268-62-0181)で地域と共に躍進されている。
そのころ、旅籠屋は11軒あり、次の通りでした。
脇本陣 本陣8代 小田中十右衛門昌豊の二男
田中屋 9代新右衛門の弟・代蔵満喜
中 屋 小田中源兵衛
扇 屋 平三郎
油 屋 武七
林 屋 佐七
和 屋 鉄五郎・ 五郎兵衛
しらがき 宗五郎
蔦 屋 武右衛門
菊 屋 豊之郎
津野田屋 丈左衛門
また、花柳界は16軒あり、次の通りです。
緑 屋 永 楽 藤 本 世 界
清 柳 堂 亀 屋 玉 木 屋 滋 野 屋
吉 田 屋 沖 の 屋 恵 比 寿 屋 中 屋
大 黒 屋 吉 野 屋 新 藤 玉 屋
余談になるが、児玉真造(東御市東上田)は明治24年(1891)1月生まれ、昭和20年(1945)9月に没す。父祖の事業を受け継いで玉屋醤油醸造に従事した。生来仕事熱心で、アミノ酸醤油の製法特許を得るに至った。ところが、この製造法が、「味の素」の製造過程に似ているということで、同会社から訴訟を起こされるという事件があった。このために、莫大な費用を投じて、ついに勝訴となった。そこで、昭和12年ころ東京の京橋に日本アミノ酸醤油株式会社を設立し、手広く事業を展開し、年間3,200石を産するに至った。
また、島崎藤村が明治39年3月に「破戒」を出版した。その稿の中に「田中の停車場へ着いた頃は日暮に近かった。祢津村へ行こうとするものは、ここで下りて、一里あまり小県の傾斜を上らなければならない。……」とある。
また、明治43年4月に水彩画家丸山晩霞は欧米視察より帰られた後、眺望絶佳の地の故郷の祢津村にアトリエ(羽衣荘)を新築されたときに、「羽衣(はごろも)槲(かしわ)」(高さ8m・根本太さ45㎝)が東京小石川辺の花戸より移植されたもので、昭和12年5月に長野県天然記念物に指定されて記念に小諸義塾時代からの知人の文豪の島崎藤村が丸山晩霞に碑文・書を書いた。(石工 掛川秀月)
「多くの樹木の中にありて 先づその緑を頼みては 生きとし生けるものに通ふ 大自然の生命を呼吸し 眺めある小県祢津の傾斜に臨み 枝に枝を生じ 葉に葉を重ね 草木の愛深き 晩霞君をして 世界に比類少なきものとまで 言わしめたる珍樹 羽衣槲が存在と徳とする記念に 藤村老人子にとりても思いで深き信濃路を訪ふ人々のために」 藤村老人
羽衣槲の木と碑(東御市祢津)
その翌年に「千曲川スケッチ」が出版され、その稿の中に「水彩画家B君は欧米を漫遊して帰った後、故郷の祢津村に画室を新築した。……土曜日に、私はこの画家を訪ねるつもりで、小諸から田中まで汽車に乗って、それから一里ばかり小県の傾斜を上がった。………」とある。
そして、本海野の故宮下和友氏(元海野史研究会長)の養父の宮下久太郎が浮世庵二世嗣号祝賀句会の記念座額には丸山晩霞は、はね釣瓶に鶏が遊んでいる民家の絵が描き添えられている。
それぞれが結びつき、不思議な縁を感じるところである。
「故宮下和友宅に掲げている句会記念座額」右端が丸山晩霞作
さらに、丸山晩霞は選者として〈時鳥山荘夜泊雨肅々〉を寄せている。
丸山晩霞は水彩画で外国から芹(せり、別名クレソン)を持ち帰り「ばんかせり」と呼ぶようになった。
また祢津12景と「ねつせんべい」を考え、湊屋の柳沢保豊氏に持ち掛け、大正末期から昭和44年頃まで、祢津名物として販売された。
①宮嶽山陵の秋月
②湯の丸スキー
③奈良原鉱泉の雲雀
④鳥帽子岳の鈴蘭
⑤金井川原の虫の声
⑥御姫苑の紅葉
⑦祢津鉱泉の御湯
⑧神樹榧の木の雪
⑨長命寺前の垂れ桜
⑩大日堂の暁の鐘
⑪定津院の春雨
⑫七都石社頭の涼風
祢津煎餅
話は、もどすと、
現在夏目国平の居邸跡と伝わる夏目氏館があったところは、古くは夏目田遺跡で夏目田村字夏目田(現在東御市県字夏目田)にして、通称「武家屋敷」と称して、方一町余り(約3,000坪以上)あったという。
東側には西五町遺跡があり、東御清翔高校の運動場の東北端から畦道を東方へ約100mほどのところに小規模な林がある。ここは明治11年(1878)8月30日に明治天皇の北国御巡幸の北陸御巡幸の際に、田中御本陣小田中家で御小休されたが、この針の木沢の清水が御前水として使われた。いまでも多量の湧水がある。清水口からの水は「分水桝」により二分されている。一方の西方を流れるのは途中水田の間を通って、上水道が完備される以前には東御清翔高校はこの湧水を構内に引水し、用水として利用したとも言われている。引用した堰形も残っている。
明治天皇一行は、岩倉具視右大臣を筆頭に宮内卿徳大寺実則・参議兼大蔵卿大隈重信・陸軍少輔大山巌・内務大書記官品川弥次郎・参議兼工部卿井上馨・大警視川路利良・宮内大書記官香川敬三・宮内大書記官山岡鐵太郎らの政府の高官など総勢672人(そのうち警視局巡査344人、近衛兵75人、乗馬116頭)の大行列で、皇居を出発され碓氷の険を超え信濃路に入り、9月6日は追分、9月7日は牧家小休所の戸主蓬田幸三郎宅(雷電の碑から西に100m)に寄り、次に田中小休所の小田中重右衛門宅本陣で天皇御 休息中に、岩倉具視右大臣をはじめ役人は一足先に本海野の矢嶋行康宅を訪ねている。
明治新政の元勲岩倉を迎えるので、行康宅は長野県知事以下県の役人や警官が随行諸員計797人及び岩倉具視の一行などで大変な賑わいだったという。
田中宿旧本陣(小田中家の玄関であったが、新屋の田中三鶴家へ移され現在は残念であるが取壊された)この本陣には、文化13年(1814)、全国測量のために伊能忠敬御一行が宿泊された。
田中宿 旧本陣縮図
小田中家の門
針の木沢湧水(御前水)
夏目氏の田で米が約4,000kg収穫されたと考えられる。
その後、土地は個人の者の所有になったが、明治・大正・昭和と養蚕が盛んになり桑畑となり、その後は、平坦な畑地となっていた。(県に在住されている長老談より)
大正12年(1923)4月16日に滋野・県・祢津・和の四ケ村学校組合立「小県東部実科中等学校」(現在の東御清翔高校)として設立され開校した。
執筆者の担任が山浦計典先生(京都大学卒業・数学博士・松本工業高校長・長野工 高校長歴任)で、その尊父が 山浦政先生で大正15年(1926)12月10日から、昭和21 年(1946)2月27日まで小県東部実科中等学校の三代目の校長の職を務められ、同 年5月の同窓会総会の席上、先生の頌徳事業が提案され満場一致で決議された。先 生の古希を迎え、芸大教授石井鶴三先生が寿像制作・鋳造は伊藤忠雄氏・石工は丸 子の長谷屋良一氏に依頼して、翌年の昭和32年11月30日に、来賓関係者400余名 の参列にて胸像の除幕式・祝宴がもたれた。 現在校舎の玄関前に建立されてい る。 その政氏の、お孫さんが山浦愛幸氏で、元八十二銀行の頭取をなされ、現在は一般 社団法人長野県経営者協会長を務めておられる。 その愛幸氏の自宅は、先祖の山浦真雄宅跡で昭和37年(1962)7月12日長野県史跡 に指定されており、真雄は文化元年(1804)8月28日生まれ、少年のころから剣道 を学び、23歳で江戸に出て一刀流を修めた。自分の理想とする刀を鍛えることに 踏み切って、文政11年(1828)3月、25歳で江戸の水心子正秀の弟子季世を尋ねて 作刀の手ほどきを受け、翌12年上田藩の刀工河村寿隆の門をたたいて鍛刀修行に はいり、この頃、家で9歳年下の弟清磨を相手に独習を重ねた。清磨はその後修行 に旅立ち、真雄は名主職にあった父を助けながら作刀に励んだ。評判も高くなるに つれて弟子もできて、刀鍛冶に専心することを決意し、天保10年(1839)36歳で小 諸藩主牧野氏より佩刀製作の命をうけ、小諸に出て藩工の生活に入った。この時清 磨が10年ぶりに旅からもどって来たので互いに無事を喜びあって、赤岩(現在東御 市滋野)の両親を尋ね鍛刀の苦心を語り合った。 弘化4年(1847)10月、中国筋へ修行に旅すること1年に及ぶ修行の旅の翌、嘉永元 年(1848)4月、上田藩主松平氏の求めに応じ、その城下に移り、45~50歳まで5年 間名作を残した。 嘉永6年(1853)2月幕府海防掛となった松代藩主真田幸貫に招かれ、厳しい試し切 りの末に採用され、長巻百振の製作を命じられたので長子兼虎をも呼び寄せて鍛刀 に励んだ。明治4年(1871)8月に、家督を兼虎に譲って隠居し赤岩にもどって悠々 自適「回顧録」に筆をとり、明治7年(1874)5月に71歳で、44年間の作刀生活を終 えた。
東御青翔高等学校の西側一帯は、「舞台遺跡」で土師器・須恵器等の出土が知られていたが、昭和15年(1940)に長野県小県農学校となり校舎改築と運動場の拡張に伴い、それぞれの個人の方々から土地を寄付されて、また昭和30年と59年には再度のグランドが拡張されて、その跡形が無くなってしまった。
道路の移籍に伴え工事は平成29年~30年に行われた。
それまで畑には古様相を示す五輪塔(夏目氏の墓)が熊笹に埋もれて多数が残っていたが、今は畑の隅にポツリと一基の一部があるのみである。
高校のグランドの北上段
アララギ派の歌人島木赤彦は大正13年7月に、組合立の東部実科中学校(現在は東御青翔高校)で町内の教育者を中心に集めて「万葉集」の講義をした後、法善寺に一泊した。その時に詠まれた3首中の一句が歌碑として残る。前住職の清水要秀和尚のとき、昭和31年に当山総代の故小林栄之助氏を歌碑建設委員長として有志を募り、総事業費123,000円、5月27日盛大な完成式が挙行された。
『七月に入りて 雪ある遠き山 山門外に出で見れば』
島木赤彦の歌碑(東御市常田・法善寺境内)
他の2首は次の通りです。
「門前より傾く丘の裾遠 川をめぐらし音のきこえぬ」
「山門のあいだに月照らし 涼しさ過ぐる夜はくだちつ」
歌碑の横には、珍しい緑黄色の八重桜御衣黄桜(ぎょうこうさくら)がある。
当山に泊まられた折に、当然地元の有力者たちと大歓迎会をしたが、赤彦は、お茶が大好きな風流人だったので、酒宴はお気に召さなかったらしく再度当地を訪れているが「宴会は真っ平ごめん」と前もって言ってきた。その時は田中の「五月女屋旅館」(現在の履物の「そうとめや」)に2~3泊したという。
赤彦は、明治9年12月16日に諏訪郡上諏訪町角間(現在の諏訪市)で塚原浅茅の四男に生まれた。本名久保田俊彦、少年時代は先生という先生が手に負えない「わんぱく小僧」だったという。
9歳の時に母さいと死別、弟文夫も失った。15歳の時には、すぐ上の兄武彦、23歳の時に次兄秀彦が死んだ。
明治30年ころ師範在学中の21歳の時、下諏訪町高木の久保田政信の養子になり、長女うたと結婚するが、24歳の時に生まれた長男政彦は病弱で、その翌年生まれた長女が生まれて間もなく死に、明治35年最愛の妻に死なれ、妻の妹ふじと結婚。その年に祖母塚原きよも亡くなった。度重なる悲しみをじっとこらえ静かな͡詞で歌にあらわした。
「生けるものなべてしゅけど君がゆきは 八十路をこえて三歳へにけり」
明治37年の春、上諏訪の高島小学校の首席訓導になり、このころ伊藤佐千夫との出会い養鶏に失敗し、明治44年には「比牟呂」と「阿羅々木」が合同して「アララギ」が誕生した。大正13年9月、日本の教育史でも有名な川井訓導事件に真正面から取り組んだ「信濃教育」の原動力の元は島木赤彦だった。
大正15年3月27日に胃ガンで帰らぬ人となった。
〈信濃毎日新聞「信州の人脈」より〉
法善寺本堂
法善寺は明治初年ころ、当地方学信の者が相集まり新寺建立を願った。下水内郡飯山町(現在の飯山市)の本光寺中興第23世妙順院日文(小林要髄)は、はじめは東京の大教院に学び、当地に招かれて新寺建立に専念し、常田の民家で布教をはじめ、以後周辺村落に篤信者を増やし、明治26年に開基の日文上人は飯山出身で、大工職は飯山の人が多く、飯山型の建築といわれ、総工費2,000円と記録されている。
同28年4月4日に長野県知事(浅田徳則)より移転再建の許可を得て、静岡県富士郡鷹岡村(現在の富士市)の寺山号を移し、現在地に諸堂を建設し、東北信地方では、まれにみる大伽藍を建立した。
日文上人は何の縁故もない地であったが、上人の布教をはじめと宗教的な情熱と活動的な実践が好感され、たちまち庶民の信仰を集めた。法善寺のほか軽井沢清浄園など3寺7教会をつくり、信徒のためには35万本の御題目を書き10数人の子弟を養成した。
句作に「読経の外に借りなし大晦日」がある。
法善寺は、明治29年11月25日には身延山第77世物部日厳上人を屈請し、久遠寺直末に編入、開堂供養の盛典を挙げ以来、日文上人を当地に移転再興の開基とし、物部日厳上人を開山第一世と仰ぐ、現職第4世要晃師。境内は5,213坪。本尊 十界像。日蓮宗 山梨 久遠寺直末。副住職清水要教師。
仁王門は、明治40年11月26日落慶、尊像は小森太・野村浅吉が寄進。
「仏師 清水和助謹刻・監督佐々木喜助」と記録されている。
昭和63年には百年祭記念事業の一環として大改修をしている。
寺内の欄間には、丸山晩霞が描いた釈迦八相の絵がある、この絵は30日間もかかって完成させた逸画と言われている。詳しくは法善寺(ここをクリックしてください)