はじめに
海野宿の地は、遠く1,200年前の奈良時代、この付近一帯を海野郷と称し、早くから文化が開け、 この郷土から献上された品が正倉院に残っており、どんな経緯で献上されたか今後の郷土史研究がまたれます。
この地に居を構えた海野氏を中心に、木曽義仲と白鳥河原で挙兵し、平家討伐の旗印を掲げ京都へ攻め上った。その後鎌倉幕府の御家人として重んじられた。
戦国末期の天文10年(1541)武田信虎(信玄の父)諏訪頼重・村上義清の連合軍に敗れ滅亡するまで、約600年余りも続いた豪族で、信州と上州にまたがり地域を支配した名族海野氏は、郷土史研究の上で忘れてはならない重要な関係があります。
江戸時代、この海野宿は佐渡の金運搬や罪人、大名行列の参勤交代や善光寺の参詣客で、大変な賑わいを呈していた。
海野宿は、養蚕最盛期の明治・大正の時代に建てられた蚕室作りと宿場時代の平面旅籠屋作りの建物が良く調和して保存状態も良く、「海野宿は宿場町の街並みとして日本一」と折り紙を付けられた。
海野宿は、昭和61年に「日本の道百選」62年には「重要伝統的建造物群保存地区」の選定を受けるに至り、これまた郷土史上、我々の誇りであります。
海野宿のあらまし
当宿の地は、非常に古くから海野(うんの)と言われていた。
海野郷が記録として、最初に出てくるものは天平(てんぴょう)年代(740前後)に正倉院御物(ぎょぶつ)の中に麻織物の紐の芯(ひものしん)に墨で書かれていることでわかる。
その後、荘園制下に入ってからは海野庄として近衛家領となり、南北朝期になるまで続いた。
こうした海野庄の領地を支配してきたのは海野氏であり、海野氏が木曽義仲に従い、ここ白鳥河原に挙兵した事は、海野氏の力の大なることを示すものである。
鎌倉幕府になっても武勇をもって重く用いられ、北条氏まで長い間にわたって仕え、弓の名人として流鏑馬(やぶさめ)の射手として活躍している。
天文10年(1541)武田・村上・諏訪氏の連合軍に攻め入られて滅亡するまで、海野氏を中心として、非常に大きな勢力を誇る信濃きっての名族であった。
その後、村上義清、武田信玄の所領となる。
海野宿周辺の略図
こうした海野氏の本拠・居館が当宿北の段丘(現白鳥台団地)にあることから、当宿の地は、海野氏の城下町的性格をもって古くから、かなりの集落形成がなされていたものと思われる。
このことは鎌倉後期、文永11年(1274)の高崎円性寺(たかさきえんしょうじ)の地蔵菩薩背名に「小県郡(ちいさがたぐん)白鳥宿住人」とあり、また下って天正10年(1582)以前のものと思われる武田氏の伝馬文書に「海野町」とあることからも裏付けられる。
また室町時代から戦国期にかけて六斎市が立っていたことも、当宿の御蔵小路(おくらこうじ)にあった市神もこの市の存在を裏付けている。
以上のことから、当宿の地はかなり古くから海野氏の本拠として、またこの近辺の交通上・交易上の中心地として栄えていたことが判明できる。
こうした背景があったからこそ、真田昌幸が天正11年(1583)に上田城を築き、その城下町を形成するにあたって、真田氏にゆかりのある当地海野から、その住民を招き寄せ、上田に海野町を形成して、そのもとの地を「本海野」と称され、ほかに、この近辺から鍛治町・材木町・大工町・紺屋町等も形成して職人らも移住させた。
また北国街道が開通した慶長年間に田中宿が開設されたにもかかわらず、それからわずか西へ1.6㎞しか離れていないこの地に宿場が設置されたのである。
海野宿が、成立当初からその規模は殆んど変わっていなかったと思われる。それが寛保2年(1746)に田中から本宿が移ってからは戸数の増加と関連して宿自体も次第に拡張されていったわけである。
出桁の木鼻繰形
それとともに、宿場町のたたずまいを色濃く残している当地の家並みや景観が文化財として価値を高く評価され、保存を望む声も高まってきて、昭和61年3月に町保存条例が施行される。
8月に建設省の「日本の道百選」に、翌昭和62年4月には文部省の重要伝統的建造物群保存地区に選定される。
宿場一帯を「歴史の里」として、行政の積極的な援助・助成により、街並みの保全・修復また資料館・歴史公園やコミュニティ広場の計画が進められてきております。
海野宿資料館
海野宿の成立
海野宿は、寛永2年(1625)に宿駅として開設された。当初は、田中宿の間の宿的性格であったらしく、問屋が置かれ田中宿と半月交代で伝馬の仕事のみ、つとめていた。
ところが寛保2年(1742)8月の大洪水により、それまで本宿をつとめていた田中宿が殆んど壊滅状態になってしまった。
この時は東北信濃にかけて殆どの村々が大被害にあったが、田中宿の被害は特にひどいものであったらしく、死者68人、負傷者59人、流失家屋120軒、残った家は29軒であったと伝えられている。
もちろん海野宿もかなりの被害を受けたが、田中宿ほどではなかったことから本宿が田中から海野に移され問屋であった藤田氏が本陣を兼任し、大名の宿泊・荷物の輸送等を一手につとめるようになったわけである。
その後、田中宿も次第に立ち直ってきたらしく、宝暦11年(1761)田中宿より古来の通り半月交代で人馬の継立を行うよう訴えがあり、両宿間で談合が繰り返されたが、海野宿側に古来に戻ることに大きな支障があり不調に終わった。
下って文化3年(1806)再び田中宿から訴えがあり、双方談合をかさねること1年余、翌文化4年11月に上田原町の問屋、田中組の割番等の仲介でようやく決着をみている。
この時の内容は「本陣は両宿に置き、大名旅人の宿泊は、相手方の意向次第で決めてもらうこと。伝馬役は以前の通り半月交代でつとめること」といったものであった。
こうした田中宿との関係は、その後江戸期を通じて変わらなかった。
なお、これらの旅籠屋には、宿振興のため寛政10年(1798)一軒につき2人の飯盛女(めしもりおんな)の抱えが15年の期限付きで許可されているが、飯盛女の抱え置きについては、許可と禁止が繰り返されたようである。
しかし飯盛女が抱えられていた頃は、海野宿に見るような出格子の家は京都の伏見あたりの女郎屋の造りと非常によく似ているもので、この格子の中に女がいて、在郷村々の若者達がこの格子を通して女をひやかして歩いたのであろう。特に、この格子を「海野格子」と、この地方では呼ばれている。
海野格子
海野宿の規模
北国街道は、中仙道(なかせんどう)と北陸街道とを連絡する街道で、金の道または加賀街道ともいわれていた。
中仙道の追分宿(おいわけじゅく)から分かれて、小諸・上田・善光寺を通って越後(えちご)に入り、高田を経て直江津に至るもので延長約35里(140㎞)。また篠ノ井より分かれて猿ケ馬場峠を越えて、松本平を経て洗馬宿(せばじゅく)に至り、中仙道に合するものを北国西街道といい約17里(68㎞)である。
この街道を通った主要なものは、もとより強い信仰心などの人の善光寺参詣、加賀百万石の前田侯をはじめとして北陸方面の諸大名(14藩)、佐渡の金銀荷物、越後の臘(ろう)荷物などであった。
佐渡には金山があり江戸幕府の大切な財源であったから、江戸との間の交通はすこぶるひんぱんであった。
佐渡の相川金山で取れた金銀は、10貫(37.5㎏)ずつ箱に詰められ、菰(こも)で梱包され、相川から小木まで運ばれる。小木から越後の出雲崎へは、幕府の御用船で輸送した。出雲崎からは、北国街道の各宿場にその行程が先触れされる。金銀の荷駄は馬一頭に2箱ずつつけられて、北国街道を江戸までと運ばれた。現在の金銭感覚で言えば何億円にもなる金銀である。大した警護もなしに、300m余りにもなる何10頭もの荷駄隊は、大名行列が通るのと同じく、一大イベントであったと言われている。
このようにいろいろな往来は、絶えずこの街道に影響を与え、宿場ではそれだけの責任も負わなければならなかったし、このためにいろいろな施設もほどこされた。
海野宿は寛永2年(1625)に宿場になった。
延長約6町(650m)居屋敷の表間口は、寛永17年(1640)の検地帳によると、間口3間半が11軒・7間が53軒・8間が11軒・9間が1軒・10間が1軒、居屋敷数計77軒で、裏行は25間(約45m)ずつとした。街道をはさんで両側に軒をつらね、伝馬役(てんまやく)に従うことによって地子(ちし)(年貢(ねんぐ))が免ぜられた。
また宿を並家破損の節は修復籾(しゅうふくもみ)を下げて営繕させ宿の東西の入口の柵も破損すれば公費をもって修復した。街路の中央に川を通し、その南側を通路とした。
宿役は月の下15日とした。問屋は当初武井作左衛門がつとめたが、寛永14年(1637)から藤田氏に代わった。
寛保2年(1742)から問屋藤田伝左衛門が本陣を兼ねていた。
本陣を補佐する脇本陣は矢島六左衛門と宮下彦左衛門が務めた。問屋給は本石のうちで1石5斗を給された。
また村役として庄屋2名、組頭4名が置かれ、庄屋は組頭の中から、組頭長は百姓の中から選任されて、なお宿役としての年寄は組頭が兼任していた。
伝馬は問屋の統括するところであるが、問屋場には馬指2名と帳付け2名が常勤していた。
海野宿の伝馬屋敷は63軒であったが、本陣・問屋・庄屋屋敷を除いた59軒で勤めていた。
その内訳は、25軒が馬持役、25軒が人足役であり、人足と馬が常備され、残りの9軒分は代金役で出していた。
また高割で、増米といって16両集め、9軒の分と合わせて25両として馬1疋(ひき)に1両ずつ補助金を出した。
馬役25軒は、文化12年(1815)宿中平均して2軒で人足1人、馬1疋あて勤めていたが、天保頃(1830)に至り「2軒で1人1疋あては、よろしくないから本役屋敷の内で見立てしだい馬役を勤められたい」と命じられた。
そして人馬雇料金は人足1人1両1分、馬1疋2両2分であった。
幕末になると人馬役を請負で雇ってやらせたが、道中奉行として伝馬役相続のために相続援助の被下金などを出すのものだから雇入馬や請負世話役をすることはよろしくないと指示したが、実際には行われなかった。
寛永2年(1625)荷物の駄賃が小諸へ48文(軽14文)、上田へ32文(軽16文)であった。
寛永20年(1643)荷物の駄賃が小諸へ75文(軽48文)、上田へ50文(軽32文)であった。
寛文3年(1663)荷物の駄賃が小諸へ60文(軽42文)、上田へ40文(軽28文)であった。
天和3年(1683)荷物の駄賃が小諸へ90文(軽57文)、上田へ60文(軽38文)であった。
宝永4年(1707)荷物の駄賃が小諸へ120文(軽74文)、上田へ101文(軽62文)であった。
天保3年(1832)町中総家数111軒で、昼夜の火の番は8人ずつ家別に勤めた。本陣・問屋・庄屋2人は諸役儀諸夫銭で全部免ぜられた。年寄は組頭を兼任し、諸人夫小役は免ぜられた。
明治11年(1878)の調書によると、養蚕兼農業が135戸、工業7戸、商業1戸、僧1戸で農業余暇では蚕種28戸、質屋1戸、酒造1戸(受売3戸)、製菓2戸(受売10戸)、茶屋1戸、料理屋3戸、旅館10戸、魚夫6戸、たばこ屋1戸、水車屋7戸となっていた。
媒(なかだち)地蔵
白鳥神社の西隣りに正行院青龍山地蔵寺の跡地に媒(なかだち)地蔵の常夜燈が残っている。昔、ここを往復した有名なお殿様に年頃の娘があったが、なかなか良縁が無かった。あるとき縁結びのお地蔵さんという話を聞き、参拝したところ、娘は良い男性と結婚することが出来たという。
それ以来参拝者が多く来るようになった有名なお地蔵さんである。
海野宿の街並み
宿場の東西端の枡形(ますがた)の石畳は明治初期に撤去されたが、街路の屈曲線は残っている。
街道の中央を流れる用水の堰(せぎ)はそのままであり、また宿駅として地割がよく残っている。
信越線(現しなの鉄道線)は地割の北側に敷設されたのが幸に、地割の裏側は今も通行できる。用水にかかる60余の石橋も昔のままの位置にあり、用水に沿って柳の並木が趣をそえて、古い宿場の態様が保存されている。
江戸時代の本うだつを持つ旅籠屋と美しい海野格子出桁造り
街道に沿って95軒の民家が並び、このうち55棟は宿場時代の建物で、そのうち25棟は2階建てで、出桁造りは7棟である。明治以降新築が40棟で、その大部分は明治期のものであって養蚕のために棟に煙抜きの小屋根を設けたものが多いので、宿場の風格を承(う)けついで、江戸期のものとよく調和している。
中心地には堂々たる2階建てが多く、出桁造り、隣家との境の防火壁(火まわし叉はうだつと呼ばれている)表構えの上下階の格子張り、また昔は板葺(いたぶ)き石置きであったが瓦葺きに改められている。そしてゆるい傾斜の屋根ほど古く江戸期の旅籠屋(はたごや)風がそのままに残されていて、いずれも家号をもって呼ばれている。
本陣は門長屋(もんながや)の一部を残すのみで、脇本陣は一つが改築、一つは撤去されている。
空からの海野宿全景(東部町誌自然編から)
白鳥神社から西方
松代道辺りから東方
松代道辺りから西方
海野格子(こうし)と卯建(うだつ)
普通の格子は上から下まで1本通しで、間隔を置いているが、「海野格子」と呼ばれているのは、2本通しの間に、少し上部が開いて2本間隔で横木がくっついて上部に2本あるのが特徴である。
青森県の高槁家(重文)の格子は1本間隔で太く、横木は1本桟(さん)。
長野県塩尻の小野家の格子は細く、横木が2本。大阪の奥家(重文)の格子は親格子の間に上部が半分開けて子格子が2本、横木2本が離れている。
千葉の平野家の格子は親格子2本の間に子格子1本間隔、横木2本がくっついている。
新潟県の渡辺家(重文)の格子は上から下まで親格子が1本通し間隔で横木が3本。群馬県の生方家(重文)の格子は横木が4本と、それぞれ地域によって違っている。
(本海野宿)海野格子
(長野県塩尻市)小野家
(青森県)高槁家
(大阪府)奥家
(千葉県)平野家
(新潟県)渡辺家
(群馬県)生方家
宇立・宇太知・卯建などとも書かれ、梁上(りょうじょう)の短柱、つまり束(つか)を指す。
近世の民家での卯建(うだつ)は高塀造の妻壁上に一段高く葺(ふ)いた瓦葺(かわらぶき)のところや、町屋の2階の袖壁様の部分をいう。
近世後半の塗屋造では防火の役にたったであろうが、近世初期には防火のために発生したのではなく、家の格を示すためにできたのであろう。
昔から、いつまでたっても出世できないというときに、「うだつが上がる、上がらない」という言葉はこれに起因する。
上小地方(現上田市・東御市と小県郡内)に4戸のうだつが残っており、長門町(現長和町長久保の竹内家)と和田村(現長和町上和田の永井家)に1戸ずつと、この海野宿(現東御市本海野の矢島家と所家)には2戸もある。
海野宿と本陣
海野宿の本陣を勤めた藤田氏の古文書が、早稲田大学に所蔵されていたので、町ではこれをマイクロフィルムに収めてこられました。
それによると永禄7年(1558)・慶長8年(1603)・寛永2年(1625)から明治16年(1883)まで、合計1,294点が、古文書研究会によって解読されました。
藤田與一兵衛信道は藤原鎌足(ふじわらかまたり)公七世の孫で藤田家の祖。
その子弾正胤顯高(だんじょういんけんこう)は武田信玄の旗下に属し上州小幡に住み、弘治元年(1555)8月24日沼田城に於いて戦死しました。
その子信吉は当時21才であったが、信玄が天正元年(1575)信州駒場で病死したあと勝頼の代となってから上杉の被官となり、沼田城におりました。
天正6年3月13日春日山に上杉謙信没してあと小田原の将北条氏邦は沼田城を攻め、信吉は降伏し再び城代となりました。
天正8年6月武田勝頼の領有になり真田昌幸と共に沼田城を守っておりました。天正18年(1590)豊臣秀吉の命により北条氏政に渡すが後豊臣氏に亡ぼされました。
信吉は慶長15年(1610)4月15日木曽奈良井で73才にして卒去された。信吉の子五兵衛吉道は佐久郡前山に住み、その子市太輔栄吉は小諸藩仙石家の家臣簿田七郎兵衛の娘を妻に迎え、本海野に住み本陣を勤め、それ以来八世藤田傳左衛門国直まで本陣を勤めました。
物々しい大名行列は槍を立て、金紋の先箱に長柄傘(ながえがさ)、騎馬と徒歩(かち)の共侍が前後をかこみ、茶・弁当係りの茶坊主頭(同朋(どうほう))まで担ぐ豪勢な行列があった。
そのため諸大名は豪華を競い合い、前記のほか弓隊・鉄砲隊、道具では長持・靴籠(くつかご)・具足櫃(ぐそくびつ)、そのほか漬物桶・風呂桶・殿様専用の便器、それに碁・将棋の娯楽用具、飼鳥まで携行するばかな大名もおりました。
加賀百万石の前田候などは、江戸・金沢間の旅程は12泊13日の場合が最も多かった。江戸・金沢間の平均的な1日の行程は9里(36㎞)ほどであった。
前田藩は馬上の藩主を行列の中央に置き、武具を持った侍や道具類を運ぶ小者達が前後を固めて、風呂桶ばかりか、中に入れる水まで加賀の清水を運ばせ、千曲川のせせらぎを聞きながら入るなど、正気の沙汰とは思えなかったそうです。
だから、昔から仰々しいことを「大名行列のようだ」と言われております。
数は500人ほどで移動するので宿泊費や休憩費のほか、藩士への諸手当、川越の人足賃、日雇人足の駄賃など費用は莫大であった。総額は、現在のお金に換算すると3億~5億円ほどになり、その多くが宿場で費やされたので、街道筋は大きな経済効果をもたらしたのである。
加賀藩は、参勤交代が全回数188回中の、179回はこのコースを通っている。これ以外のコースを通ったのは、9回(参勤2回、交代7回)のみである。 コースは、参勤交代の時の宿場の混雑を避ける維持・保護する政策からきめられていた。
別のコースを通った理由は
①地震による信濃路の通行不能
②親不知の崖崩れ(北国街道の最大難所)
③同上の道路決壊または高波
という事故の影響である。
金沢と江戸の間の所要日数は、12泊13日が普通であったが、途中の状況により、15泊16日間の長旅になったこともあったとのことである。 江戸時代の人は、普通1日に大人は12里ぐらい、女子供でも8里ぐらいは歩いた。重い荷物のときと、軽い荷物のときとでは、スピードが違っていた
大名行列が宿場に入るときは、2日前から宿場の入口と本陣の玄関に、「何々守旅館」と書いた「関札」(木札)を掲げました。
大名のほか公家衆・代官・門跡などは本陣泊まりだが、この木札が出ている時は、他の大名は脇本陣か旅籠屋に泊まらねばならなかった。
脇本陣には、大名が本陣に入ったあと、家老や奉行など同行の重役が泊まることもあった。つまり本陣の補助機関にほかならなかった。
本陣は土地の名家がつとめ、平屋作りで門・玄関を構え、玄関を上がり、奥まったところに殿様の入る上段の間(ま)があるが、庭をへだてて厩(うまや)と土蔵があり、植込みや置石のないのが特徴であった。
これは忍者に備えたものであった。また食事も本国から連れてきた料理方が持参の材料で作っておられます。これも敵に毒を盛られないための用心であります。
本陣へ泊まる資格の上下を決めるのは、格による親藩・譜代・外様などで決められております。次に禄による石高で、さらに老中・寺社奉行などの役職で、その他に三位から従五位などによる官位の順序に従って上下を決められておりました。
大名には年に一度と隔年の参勤交代があり、本陣とは切っても切れない親密な関係があり、定宿として経済的スポンサーの役割をしておりました。そんな関係から本陣が災害などに遭うと、大名が金を出し合って再建に協力したり、家臣並に扶持米を与えることもあった。
しかし、幕末に大名が窮乏すると、本陣の経営も苦しくなってきておりました。大名行列も華やかさを失い、なりふりかまわず簡素化されていったようです。
文化8年(1811)越後高田の榊原侯は、毛槍も先箱も廃し、草鞋ばきの野営でお国入りをしている記録もあり、そうなると本陣も成り立たなくなり終わらざるを得なくなりました。
こうして明治初めの頃には本陣も、ばたばたとつぶれております。
(時代考証辞典より)
本陣の平面図
海野宿と高杉晋作
そんなことがあったのか?それは、ほんとうのことだろうか?
それは今から約150年の昔、万延元年(1860)9月20日の事である。
前夜は塩野(御代田町)で一泊し、朝食後に塩野を出発した高杉晋作は東信濃の初秋の景色を眺めながら、浅間の山を背にして北国街道を西へ西へと歩いた。
そして、その日9月20日の昼食は本海野の宿場ですませたことであろう。
また、海野宿の白鳥神社に参拝し、木曽義仲3千騎の挙兵の地といわれる千曲川の川原にたたずみ、遠い鎌倉の時代の歴史を偲んだことでもあろう。
その晩は、上田城下に泊まっている上田藩士垣川才八郎・桜井剛三郎ほか数人の人たちと交流しているという。
幕末の志士高杉晋作は、今は亡き師吉田松陰の紹介状を持って、江戸-笠間(茨城)-日光-碓氷を経て北国街道を西へ進んできたのである。
そして9月21日には松代に宿泊した。松代訪問の目的は佐久間象山に面会することであったと断定できる。
そして松代滞在一日半にして、直江津-北陸路を経て福井藩士松平春嶽に士官していた横井小楠を訪ねるため道を急がねばならなかった。
活文禅師-佐久間象山-吉田松陰-高杉晋作
これが晋作をめぐる師弟の関係である。
晋作の師吉田松陰は、これより約5年前の安政元年(1854)、安政の大獄の弾圧で橋本左内ら8名と共に死罪となってしまっていた。
そして晋作が北国街道の回国の旅をした年の春、大雪の3月3日には江戸桜田門外の変があった。老中井伊直弼(彦根藩主)が斬られた。
東奔西走の幕末の志士高杉晋作が、このように北国街道の旅を歩いたのは、彼が20才のときであった。
本海野に生れ育った矢島行康は、このとき25才の青年であった。
矢島行康は幼時より国学を学び、特に高山彦九郎を崇敬する念の厚い青年であった。
万延元年(1860)9月20日の、この日を25才の行康青年はどのようにして過ごしたであろう?
海野宿と御蚕様
矢島行康は、天保7年(1836)1月2日海野村に矢島五兵衛吉行の長男として生れ、幼少から学問が好きで、嘉永6年(1853)16才の時に上田の国学者成沢寛経の門下に入り、その後江戸に出て平田鉄胤(平田篤胤の養子)の門に入り国学を学びました。
行康は尊王家といわれた高山彦九郎を欽慕(きんぼ)する念厚く、安政元年(1854、このころ横浜開港にともない生糸・製糸等の輸出が始まる)19才の頃から、その遺墨遺品の蒐集(しゅうしゅう)につとめること30余年、その他に蒲生君平・林子平等の遺墨の蒐集にも尽くしました。
高山彦九郎が寛政2年(1790)『北行日記』に書かれた日記によると次の通り、安永4年(1775)3月5日、高山彦九郎(29才)海野新田桃のはやし花盛りなり、次に海野入口左二丁ばかりの木の下に「瑞泉院殿器山道天居士」裏には大永4年(1524)7月6日と記せり、海野氏の墓なりという。このうら城址あり、田中口、上田より2里ばかりの駅なり。海野宿を通過する。京都を立ち、近江・若狭・越前・加賀・越後・信濃7ケ国を広く歴遊して郷里に帰るまでの長旅であった。寛政10年(1798)に47才で死去された
明治6年(1873)9月に、1年10ケ月振りに、岩倉具視は欧米より巡遊して帰りました。岩倉の主張は、その文物制度・武備等、国力の盛んなるに驚き、我が国も国力の充実に努めなければ列国に肩を並べることができないことを深く悟り(さとり)ます。
矢島行康は、岩倉帰国の翌年の明治7年に岩倉邸を訪ねて、西洋諸国の事情を聞き、彼の富国産業政策に共鳴して、「国家のために養蚕業を盛んにし、大いに生糸の輸出を増大して国力の充実を図らねばならない」と心を新たにし、養蚕業の発展をはかり、蚕種の製造に力を注いだのであります。
そのために行康は施設を整え第1の蚕室から第4の蚕室までにおよぶ蚕室を建立し、その中で第1の蚕室は明治7年の建築で、この地方の蚕室の先駆をなしております。第3・第4の蚕室は明治20年(1887)に至って完成しました。
行康の養蚕については、彼の養蚕は治国の大業という高い見地に立って、その事業を経営しました。
矢島行康記念館
明治11年(1878)8月30日に明治天皇の北国御巡幸の一行は、岩倉具視右大臣を筆頭に政府の高官など総勢7790人が、皇居を出発され碓氷の険を超え信濃路に入り、9月6日は追分、9月7日は田中の小田中邸で天皇御休息中、岩倉具視右大臣をはじめ役人が一足先に行康宅を訪ねております。
明治親政の元勲岩倉を迎えるので、矢島行康宅は長野県知事以下県の役人及び岩倉具視の一行などで大変な賑わいだったという。
高山彦九郎関係の遺品・遺墨などの自筆の日記や吉田松陰の詩文の掛軸、一茶の軸物、その他岩倉具視・三条実美の墨蹟の掛軸などが矢嶋行康記念館(現在は孫の幹夫氏館長)に保存されている。更には信濃の民情や産業等にも及んだと推察されるところであります。
その後行康は岩倉邸を訪ねては、論談しています。
明治20年(1887)従三位黒田清綱大人の訪問を受ける。
矢島行康は明治22年(1889)7月9日に麻布の三条実美邸を訪ね、蚕種のことを見に来るように要請されたり、明治24年(1891)8月24日には農商務大臣陸奥宗光の官邸を訪ねて、「蚕業御参考書」という意見書を提出しました。
かくのごとく行康は本海野をはじめ、この地方の養蚕・蚕種の振興に大きく貢献し、繭の生産で長野県は第1位となってきました。
特に種屋が多い本海野は総欅造りの屋敷を建たり、城郭を思わせるような鯱瓦(しゃちかわら)をのせた屋敷などが造られて、実に活況を呈して来たといいます。
行康は、明治28年(1895)2月22日に享年60才にて亡くなりました。
その後、昭和19年(1944)に永野修身元帥が、昭和24年には貞明皇后が、この地域の養蚕奨励のために訪れております。当地域の養蚕・蚕種業は、先駆けの矢島行康により明治・大正・昭和の時代へと著しい発展をいたしました。
貞明皇后の碑が、海野宿場の東側の枡形を過ぎた所の中央に流れる用水路のそばに2基の碑が続いて建っている。 貞明皇后の碑の正面「貞明皇后 養蚕御視察記念碑 尾崎行雄著」とあり。 裏面には畏くも貞明皇后蚕糸御奨励の思召しを以て昭和24年6月19日御来臨の栄を賜る事を記念して建立。 昭和16年12月5日平川徳治。 もう1基の碑の裏面には昭和24年6月19日畏くも日本蚕糸会長皇太后陛下養蚕御視察の為 御光臨の栄を賜る。 「昭和26年10月吉日所徳雄建立」と刻まれている。 貞明皇后(九条節子)は明治17年(1884)6月25日九条道孝の四女として誕生した。 大正天皇の皇后となり四人(昭和天皇・秩父宮・高松宮・三笠宮)の皇子をもけられた。 また、蚕業・癩・燈台の三つは貞明皇后が終生の事業として心を打ち込まれていた。 九条家のときから養蚕に親しみ皇后になってからも宮城内に養蚕資所が置かれていた。 養蚕の知識も豊富で桑の匂いを好まれたといわれる。 戦後は日本蚕糸会の総裁に推され毎年のように全国各地の農家をまわり養蚕家を激励した。 本海野の各戸は江戸時代の宿場時代が終わると急転養蚕・蚕種業に代わった。 各戸で養蚕をすることはもちろん、約数十戸の蚕種(蚕の卵)家も存在した。 そして、それ等の蚕種業者は群馬・茨城をはじめ関東方面一円にも進出した。 蚕種(蚕の卵)の生産が日本の1~2を争うには、冷蔵設備が大きな役目を果たしたのであ る。 海野には、滝沢家と松林家に大きな冷蔵設備があり、しかも、そこに保管する貯蔵場所が あり、冷温を利用して蚕種を低温貯蔵することで、羽化回数を調整でき、一年に一回しか できなかった養蚕が4~5回できるように、大きな威力を発揮できたことを忘れてはならな い。 養蚕・蚕種の天国も昭和9年を最長点として以降生糸輸出量も下降の一途をたどったのであ った。 養蚕・蚕種業の盛んな本海野の地を昭和24年6月19日貞明皇后が訪ねられたのである。 それから約2年後の昭和26年5月17日に急逝されられた。 また、貞明皇后は不自由な燈台守の生活にも同情を寄せられ各地の燈台を訪ねた皇后の次 御歌は長く燈台関係者に口吟まれたという。 あら波を くだかんほどの 雄心を やしなひ ながら守れ ともしび
また、明治18年には直江津から上田まで鉄道の工事が始まってきておりました。
上田・軽井沢間の停車場予定地は、宿場として繁栄していた海野宿のすぐ北側に設置する計画で進められていたところであったが、当時の海野近在は蚕種業が隆盛を極めており、「火車が通れば、その煙で桑が侵され蚕に害になる」と鉄道省役人の宿泊している宿へ鍬や鎌等の農機具を持って押しかけ、猛反対の運動を起こしたため、いかしたくなく第2候補地の田中に設置することに決まり、明治21年12月1日開業しました。
もしも、海野の宿場内に駅が開業していたら、海野-依田川沿いに丸子-鹿教湯-保福寺峠-松本-木曽谷-中津川-大垣に接し、京都に至るまでが予定されておりました。
これまた、鉄道省の役人が調査・測量のために宿泊していた鹿教湯の斉藤旅館に煙害で桑がやられ、養蚕ができなくなると地元民が押しかけ猛反対したことや、工事の難易・営業経費などの面で比較検討された結果、ルートを姨捨経由の現在の篠ノ井線に決定されました。
今でも、その時の三才山峠経由の測量道が鹿教湯に、その面影が残っております。
この海野宿駅が実現されていたら、もしかしたら上田駅以上に発展し、昔をしのばせる現在の海野宿は残らなかったかもしれません
北国街道宿場の狂言
資料としてさほど重要というわけではないが、当時の風俗や街道のありさまを知ることができ、また、当時の旅行の実態の一面を示している。
この「吾嬬紀行」は、高田(現在の上越市高田)の人、松島庵富永明が文政7年(1824)に出版したものである。
その子孫が大正10年に再刊し、上水内郡三水村(現在の飯綱町)渋沢博氏が所蔵されている。
これは文政6年(1823)に江戸へ旅をしたその旅行記だが、宿場ごとに絵と狂言、会話を組み合わせ、おもしろく書いている。絵は人物ばかりで、また近世の文芸書の文字の読み方の練習にもなるので、絵も掲げた。そして、いたる所にかけことばやダジャレがあり、興味深く書いてある。
また宿駅の名や里程などもあまり正確ではない。
(上略)
野尻 柏原へ一里
こしほそに やせぬ世帯のとめ女 見れば野尻も 大きなる池
ㄟコレヤ、たび人さん。わしがのじりも あぢのよい 藁麦に 池のふなやはや
野尻
柏原 古間へ一里 (二里)
富貴なる 宿と 見へけり かしわぱら 按摩も金の とりどころあり
ㄟゆきかよふ人にハ やどをかしハばら 松のはなしも ござりやんしやう
ㄟヲゝ、ソフサ、ちとせ ふる間もつるそこだ。よくひねってください
柏原
古間 むれへ一里
ひき留る 袖を振間の たび人は 雪のはだへの いもと しらずや
ㄟナンダ、けいせいでも あってきゃくを ふるまか ナンノイなア
きゃくを ふるまじゃ ないわいのふ
古間
牟礼 あら町へ二里半
宿の名の 無礼と ゆふな たび人が、よしや むすめに あしをつけても
ㄟこゝかこゝかと たづねなんす ひとハ むれいの まちの にぎハひ
牟礼
新町 善光寺へ一里
通り行 雲の 袖まで とゞめけん 月に くもりは あら町の宿
ㄟしっかりと 御やくそくハ いたさぬど あらまちにまちやんした
サア、おはいりなさんせ
新町
善光寺 丹波島へ一里 (三里)
廻壇の 地獄いずれは 極楽の ひかり かゞやく善光寺
ㄟおきゃくも よふおひかり なんした
サアわらじの ひもくれかゝる うそハねヘ ほんだよしみつ
善光寺
丹波島 屋代へ二里三十丁
紅葉の うきて ながるゝ いろを見て 丹波島との 名や おハせけむ
ㄟコレヤ、あの馬のりの だんなさま おきゃくに 丹きこゝろあり
たんばじまへきてみなんし、ふとい 川だぜ
丹波島
屋代 下戸倉へ一里 (一里半)
かたそぎの 行かふ人に 千はやぶる 紙のやしろの 宿は賑ハし
ㄟ申、おきゃくさん神の やしろにすむ 川のこゝろを くんでおと まりなさい
屋代
下戸倉 上戸倉へ半里 (十八丁)
はやけれど こゝに とまらん あす足の くたびれるのも 下とぐら宿
ㄟコレもふし とけぬはなしも とぐらのまち、
またそふもない儀で ござりやんす
下戸倉
上戸倉 坂城へ一里半 (十八丁)
立かけて いそがぬ 客はとうりうの なぞととぐらの宿の くゞつ女
ㄟコレもふし、あのだんなさま、おとまりなさんせ、はやくとも、
そんのなきとぐらの町でござりますから、あすもとぐらに たゝせます
上戸倉
坂城 上田へ三里 (二里)
おまつりの わたりはじめや くゞつ女の しゃくに さかきの廻るたび人
ㄟ申、おとまりなさんし、ありがたい まちでござります。
神のさかきでございます。二かい ざしきをかしハ手のおと、
さあおはいりなさんせ
坂城
上田 海野へ一里 (十八丁)
十二反 めして まゝよと 商人の 言葉の
つやも よき 上田じま 「名物上田紬品々」
ㄟゑちごより信濃ハ うへ田とまふし ます さてごらうじろ
上田
海野 田中へ一里半 (十八丁)
やけもせず あらしに軒も いためぬは まことに うんの つよき家造り
ㄟサア、おとまり なさんし、うんの ある まちでござり ます
みのまハりも よきふとん、しきたへの まくらも かハさし やんす
海野
田中 小諸へ二里半
冬がれの 田中の宿の ぬけまいり なりも 案山子に 似て破れ笠
ㄟコレヤ、このだんな さん、とまらっせいね、
こゝろよき 田中で ござり やんすから
田中
小諸 追分へ三里 (一里三丁)
ぬしもりの かりのちぎりの ひぢ枕 たのしみ うちに こもろ宿かな
ㄟ人のこぬ夜、我ひとり ざしきにこもろか、もろもろのもの おもひあり
あかす身ハ、しづかごぜんが わるくハない いろしなのくに
小諸
追分 沓掛へ一里三丁
とまる客 とまらぬ客と 右ひだり 追分てゆく 宿の馬かた
ㄟコレヤ、おきゃくさん、きまいのわるい人ハ あちらへおひ、きのよい人ハ
こちへわけイヤ、おまいさまハわるいお人 イヤそふでないそふな、
としがよったら 目がかすみ、はがぬけて、舌がまハるばかりでござりやんす
追分
沓掛 軽井沢へ一里五丁
あしを空に いそぐ旅路の いたづらや 立木の枝に 馬の沓掛
ㄟ雪のくつかけてや、おくの間に入て、ゆきのはだへの ふりそでむすめ、
しゃくとりさかなも たんどござりやんす、サア、おはいりな
沓掛
軽井沢 碓氷峠へ半里 (二里三十四丁)
わらハせて 旅のうさをも なぐさむる 按摩はくちの軽井沢哉
ㄟ天が下ハはてしなきも、しなのゝくにの はてしにあらんと、なごりおしく
おぽしめの あつきふろのゆちや、よぎふとんも あつあつとあつものそろひの
御りゃうりながら、はらひといふたら、女らもかるいざハ、あなたのおもにも
かるいざハにしてと おしゃんす
軽井沢
(以下省略)