奈良時代の海野郷
今から約1,300年前
奈良の正倉院には、信濃の海野郷から牛か馬の背によって、はるばる奈良の都へ運ばれ、そして宮中で、きらびやかな調度品として、その責務を果たしたものが残っている。
正倉院は光明皇太后が聖武天皇追善のために東大寺に献上された無数の宝物を収めた庫である。その宝物は武器・楽器・遊具・服飾・調度品・文具等で日本が世界に誇る宝物庫であることは良く知られ。
この正倉院の御物の中に「信濃国小県郡(ちいさがたぐん)海野(うんの)郷(ごう)戸主(へぬし)爪工部(はたくみべ)君調(きみみつぎ)」と墨で書いた麻織物の布の一片が発見されている。これには年号がないが推定すると天平年間(729~41)頃の貢物であろう。
このころ小県郡に海野郷という集落があって、爪工部という人々が、高貴な人が使う「紫の衣笠」を造れる高度な技術者集団がいて、かなり地位の高い姓を賜っていた人々が、この地に住んでいたことが立証される資料である。どうして、このような職業・身分の人たちが、こんな僻地に、しかも都から遠い地に定住してたのだろうか。
五世紀ころ、大和政権は遂次に、その勢力を広めるため東山道が拡充されていた。
この海野郷周辺には中曽根親王塚をはじめとする多くの古墳が存在していることからみて、早くから中央の文化がこの地に流れこんでいたことは言うまでもない。
弘仁14年(823)前後に編纂された「日本国現報善悪霊異記(りょういき)」によると、奈良時代の末期の宝亀5年(774)この地に大伴連(おおともむらじ)忍勝(おしかつ)なるものがおり、法華寺川(金原川の下流)に居所をかまえ、その居館近くに氏寺を建立していることから相当の勢力があったことを示している。後世に発生した海野氏は、この大伴の系譜をひくものではなかろうか?
また、当地に「県(あがた)」「三分(みやけ)(屯倉(みやけ))」等の古代の匂いの濃い地名が数多く残っており、いずれも古代中央の文化が盛んにおしよせてきたことを物語っている。しかも、すぐ西方には、信濃国府・信濃国分寺があって、信濃国の政治・文化の中心となっておりました。それらの文化とともに都から、ここに下って定住し、かなりの勢力者となったのが海野氏ではなかろうか。
滋野の地名
現在の長野県東御市には「滋野」という地名と神社が、それぞれ二ヶ所にあります。
一つは地名で、祢津大字新張(みはり)字滋野(現在は東御市新張)があり、しかもその地に新張の「滋野神社」があり、創立年月は不詳であるが、口傳には大同年中(806~9)牧監滋野良成朝臣(あそん)の創建と伝えられております。
祢津の滋野神社
もう一つは和(かのう)大字海善寺字滋野原・滋野鎮(しずめ)と地名があり、その地に海善寺の「滋野神社」があり、創立は未詳であるが、伝えによると大昔、海野郷内に移住した滋野氏代々の産土神で八幡大神を祭ったという。
天延年中(973~5)に滋野氏の後裔である海野幸恒が再興したと伝えられ、社の南面には海野氏の旧館の地へと続いていることから、海野氏と深いつながりをもつ古社であることが明瞭である。その後になって木曽義仲が戦勝祈願の折に、白赤のボケを記念樹しておられます。
海善寺の滋野神社
また東御市西深井(にしふかい)の諏訪社、東御市下之城(しものじょう)の両羽(もろは)神社、佐久市望月の大伴神社には、楢原東人系の神や神像を祀っておられます。このことからも無関係ではないと思われます。
それから、京都府庁(京都御所の西側)の周辺に以前滋野学区(現在の上京区)と呼ばれていた所に京都市立滋野中学校(昭和55年ころ閉校)と上京消防団滋野分団の詰め所が、かってありました。
その府庁の西側には平安時代のはじめ、滋野貞主の邸があり、そこにはよい泉が湧き出していて、後に蹴鞠(けまり)の達人成通らが住んでいて、滋野井と呼んでいたといいます。 (平凡社「京都の地名」より)
奈良原にいた滋野氏の祖
平安時代の六国史の記事『平安遺文』の資料に、滋野朝臣貞主の曽祖父は楢原造(ならはらみやつこ)東人(あずまびと)で、『続日本記』に天平勝宝2年(750)3月「駿河の国司楢原造東人が在任中に庵原郡蒲原(現在の静岡市蒲原)の多胡浦浜で金を採取して、朝廷に献上したので同年5月には東人に伊蘇志(いそしのおみ)(勤)臣の姓(かばね)を賜った」とあり、この頃は奈良大仏の鋳造をしている時であったので、金の発見と採取を促したことが知られておる。
天平17年(745)の記事では「外従五位下楢原造東人」とある。
その翌年天平18年(746)5月7日に「外」がはずれて「従五位下」に改められたことは、地方出身者や地方の郡司等に与えられた位階のことである。「造」については地方における有力者で、朝廷に仕えるようになった身分のことであるので、「東人」は飛鳥朝廷に仕える前は、東国に住んでいた人ではなかろうか。
以上のことから楢原造東人の先祖の地は信濃国奈良原(現在の長野県東御市新張の奈良原)がもとで、都に出て仕えるようになり滋野氏を名乗るようになったのであろう。
このころ、新張牧の奈良原の聖地に、智光山三光院長命寺が密教の修行道場として栄えており、この寺の上人は永作元年(989)6月に亡くなっております。
奈良原宮跡
そのほかに奈良原の地には「古寺跡」「奈良原京跡」等の歴史的に古い地名が残り、楢原姓の苗字を持つ人たちがおられます。「楢原」の苗字の人は現在長野県の東信地方に44軒で、うち東御市に43軒で新張地区には35軒が固まっておられます。
この奈良原の地には「新張の牧」があり、この地の豪族祢津氏、祢津神平貞直が鷹飼いの秘術で名高いように、馬を飼う技術が極めて優れたものがいたと思われます。「望月の牧」を基盤とする望月氏も同様で、奈良県御所市楢原の山麓に馬の神様、駒形神社があることから楢原造東人の先祖の地は奈良原であっただろうと思われる。
また現在の長命寺の別当で東方に大日堂があり、その本尊の大日如来地蔵尊は天平元年(729)に奈良県の楢原氏の菩提樹九品寺開基と同じ行基菩薩で北国辺土庶民教化のため巡回の際に、一刀三礼の勤修をもって彫刻された木造(丈220センチ)で霊験著しく、未完の秘仏であると言われている。
昭和2年(1927)7月4日、金井区長小林虎一郎氏、長命寺54世百瀬栄善師等の斡旋により、文部省古社寺調査事務主任塚本慶尚氏等の調査の時、平安朝の藤原氏全盛時代の彫刻で900有余年前の仏像にて、国宝的価値が充分ありと、折り紙をつけられるほどの尊像であったが、残念なことに寛保2年(1742)の戌の満水の時に庭心・清心両尼僧の救出が辛うじてで、避難の際に一方の肩を損像してしまったことである。(土屋麓風著「祢津の史蹟を巡る」より)
長命寺
奈良県の楢原氏
楢原は大和国葛上郡楢原郷(現在の奈良県御所市(ごせし)大字楢原)にある地名であり、現在の福島・茨城・群馬・福井・岐阜・奈良・兵庫・鳥取・岡山の諸県に十ケ所あります。
この楢原には、駒形大重神社があり、駒形神社と大重神社は別々のお宮であったが、明治40年(1907)に合併して、現在地の駒形神社に合祀された。大重神社は、楢原の地で東方の字「田口」に鎮座していたという。
大重神社は「延喜式」神名帳の「葛城大重神社」にあたり、地元では「しげのさん」と呼ばれ親しまれており、滋野氏につながりを持つ有力なお宮であった。現在は、合祀された駒形大重神社に、祭神の二座のうち一座は滋野貞主が祀られております。
奈良県御所市大字楢原の葛城山の東麓に九品寺(くほんじ)があり、山号戒那山、浄土宗、本尊の木造阿弥陀坐像(像高123センチ)は平安後期の作で国の重要文化財に指定されている。本堂は明和5年(1768)の再興、寺伝では行基の開基で、もと戒那千坊に属したという。
永禄年間(1558~70)弘誓が浄土宗を改宗、中世に勢いを振るった楢原氏の菩提寺で、同氏一族の墓碑がある。
葛城山の東麓に標高320メートルの丘の尾上に楢原城跡がある。東・南・北は深い谷で、尾根は東方へ240メートル余り細長く突出て、段上に七つの郭が連なっている。台地の東北方に深い谷を隔てた小山の頂上は、平地になっていて連郭があり、東・南・北に全長500メートルに及ぶ空堀の跡をとどめ、西端に三重掘跡がある。
楢原氏は大和六党の一つの南党で、すでに鎌倉時代末には伴田氏とともに春日若宮の祭礼に流鏑馬を奉納している。 (春日文書)
この楢原氏は大和出身の旧族である。『和名妙』に「奈良波良」と訓じている。越知郷段銭算用状(春日神社文書)に「楢原庄十町五段半」とあり、中世には興福寺大乗院方国民楢原氏がみえる。 (平凡社「奈良の地名」より)
滋野氏の先祖はこの楢原氏
その楢原氏の系統については『新撰姓氏録』の右京神別の条に「滋野宿祢、紀直と同祖、神魂命五世の孫天道根命の後成」と明記されており、紀伊国造と同系であって、次の系図が伝えられている。
奈良の平城京に都があったときには船白・家譯(いえつぐ)父子は伊蘇志臣(いそしおみ)でしたが、伊蘇志臣から滋野宿祢(すくね)に変わったのは、第50代恒武天皇の延暦17年(798)船白の代のことである。
貞雄は右京の人也。父従五位上家訳、延暦7年(798)に伊蘇志臣を改めて滋野宿祢を賜う。弘仁14年(823)に滋野朝臣を賜う」とある。
それは、楢原から滋野に変わったのが、大同元年(806)5月18日の平安遷都のときに船白や家譯も一緒に、奈良の地から平安京の滋野の地(京都御所西南の府庁の地)に移住し地名をとって「滋野朝臣(あそん)」となったと思われます。こうして、家譯の子貞主は「滋野朝臣」となり、平安時代はじめに、京の都に滋野氏が誕生したのであろう。
滋野貞主は『続日本記』から『日本三代実録』までの六国史の記事に『平安遺文』の史料等をみてみますと、第53代淳和天皇の代に、儒臣にして大同2年(807)文章生に及第(合格)、弘仁2年(811)仕少内記となり、弘仁12年(821)に図書頭、その後内蔵頭・宮内大輔・兵部大輔・大蔵卿・式部大輔を歴任、 弘仁14年(823)には父(家譯)とともに滋野朝臣の姓を賜り、天長8年(831)文章博士、承和9年(842)参議に任ぜられ、嘉祥3年(850)正四位下となるなど諸官を歴任しております。
仁寿2年(852)2月の『続日本後紀』には、「参議正四位下行宮内卿兼相模守滋野朝臣貞主卒す。貞主は右京の人也。曾祖父大学頭兼博士正五位下楢原東人。云々遂に姓に伊蘇志臣を賜る。父尾張守従五位上家訳は延暦年中姓に滋野宿祢を賜う」とあり、次に貞観元年(859)12月の『三代実録』には「従四位上行摂津守滋野朝臣貞雄卒す。
慶雲4年(707)より天長4年(827)の間に諸人が作った詩作178、人賦17首、誌97首、序51首、対策38首を偏して『経国集』2 0 巻を朝廷に献上しました。
また天長8年(831)には勅(天皇の命令)により、多くの儒教者とともに秘府の図書を基に、類別を編纂し1,000巻に及ぶ百科辞書『秘府略』を著す。これは、わが国空前の大著で、この一部が国宝として今に残っている。
多くの学者を統率して完成させた裏には貞主の高潔な人柄が窺い知られます。
貞主は、第53代淳和天皇の代、儒臣にして文章生より出身し、諸官を歴任した。、天長8年(831)文章博士、承和9年(842)参議に進み、嘉祥年中(848~50)正四位宮内卿兼相模守となる。
仁寿2年(852)の『文禄実録』に大外記名草宿祢安成に滋野朝臣の姓を賜るとある。
貞主には二女がおり、長女縄子は仁明天皇の女御(妃)となり本康親王を生んでいる。次女奥子も文徳天皇の中宮(皇后)として惟彦親王を生んでいる。親王や内親王が生れて天皇の義父となり、一大勢力者となったが、唇に腫れものができて、仁寿2年(852)2月8日68才でなくなっている。その居宅を西寺の別院に寄贈し、慈恩院と名づけられている。
このような滋野氏の子孫で京にいた者は、朱雀天皇の時代に中務大丞滋野春仁、一条天皇の時代に大外記滋野善言などがいる。
前記系図の恒蔭は『日本三代実録』によると、貞観10年(868)1月16日に大外記より従五位下信濃介に任ぜられ、その子恒成は正六位下因幡介で、清和天皇の皇子貞保親王の家令となり、妹は貞保親王に嫁いだ、恒成の子の恒信は正六位上左馬允であったが、天暦4年(950)2月に信濃望月牧監となって下向し、幸俊と改名した。
滋野善蔭の義弟に滋野河内守善法・善根らがいる。滋野善根は貞観12年(870)に信濃守となり、善蔭の子滋野信濃守恒蔭は『日本後記』によると貞観10年(868)に信濃介に任ぜられた。
このようにして、滋野一族の者が信濃の国司に任ぜられ、信濃に下向している。これが信濃滋野氏の祖となったという。
『日本後記』によると信濃からの貢馬を司る役人として見られることから、代々馬寮と深い関係を持つ役職にあったと思われる。
このことは信濃の諸牧とも強い絆で結ばれることとなり、代表的な望月牧や新張牧などの管理者であった望月氏や祢津氏とも血縁関係を持つようになったものと思われる。
このころ海野郷一帯には渡来人にかかわる伝承が多く残されており、浅科村八幡(現在の佐久市八幡)には「高良社」が祀られている。また、北御牧村下之城(現在の東御市下之城)の両羽神社には善淵王とダッタン人と言われている船白(代)の二基の木造が安置されている。
この地方の伝承によれば、その一基の船白は、渤海国(現在の中国東部に興った国)からの渡来人であり、善淵王の師と言われている。
渤海国は朝鮮半島の高句麗の旧地を合併して栄え、わが国の奈良朝の聖武天皇のころより、しばしばわが国にも朝貢をしていた国である。その渤海国からの国使が帰国するにあたり、延暦18年(799)に、その見送りに随伴したのが、「式部少禄正六位下滋野宿祢船白」である。
これは滋野氏が中央の名族として、朝廷とかかわった古い記録(日本後記)に見られることである。
その船白の像と伝えられている古像が、滋野氏との関係の深いと言われている善淵王像と、一緒に祀られていることは、望月牧の馬飼養の技術導入と牧経営にかかわった人たちから、繁栄の基礎を学び、習得したのではなかろうか。 (北御牧村村誌より)
このころ、海野に水をひくための用水で、吉田堰が真田石舟地籍(現在の上田市長石舟)から神川の水を揚げて、本原・赤坂・矢沢・下郷・森・大日木・小井田・中吉田・東深井に至り、海野郷へ延長されて千曲川に合流している。創始は、養老年間(717~23)だと言われている。吉田という地名は、稲作に適した良い田のあるところという名のようです。従来は田沢(現在の東御市和)から流れ出す金原川および成沢川の水を利用していたのであったが、永禄元年(1558)から13年かけて大改修によって完成した。これにより吉田堰は瀬沢川を渡って、東深井、大平寺方面まで水が届くようになりました。
恒蔭の子に滋野恒成(善淵王=一説には恒蔭の女子が清和天皇の子の貞保親王と結婚して、その孫善淵王(よしぶちおう)が信濃守として小県郡に下ったともいわれる)が寛平2年(890)に生まれる。
これを系図に示すと次の如くになる。
一説には、一羽のツバメが舞い込んできて、それを見上げた親王の目に糞が落ちてきて、それがもとで親王は目を病み、色々と手を尽くしたが、効き目がなく、信濃の烏帽子山麓に霊湯(嬬恋村の加沢の湯)があると聞いて、はるばる下ってきて湯治をしたという。痛みは治ったものの、ついに盲目となり、小県郡海野の郷に住むことになった。信濃国の国司に任ぜられ、その後に信濃の深井氏の娘と結婚し、その孫が善淵王(恒成)で信濃滋野氏の祖と言われている。
信濃滋野氏誕生と平将門(天慶の乱)
滋野恒成(善淵王)が48才の頃、千曲川合戦(天慶の乱)が起こる。
恒武天皇の第四子葛原親王は、東国に荘園を持っていた。葛原親王の子に高見王がおり、その子が高望王である。この高望王が「平」の姓を賜る。平高望が寛平2年(890)52才のとき上総介に任命され、一族郎党を引きつれて東国に下った。
そのころ、大和朝廷に征服され帰順した「えぞ」を上総や下総につれてきて「俘因」といって集団生活をさせていた。その「俘因」がたびたび反乱を起こし、朝廷を悩ましていたので高望に国内の治安維持にあたらせた。高望の長子国香(鎮守府将軍)には菊間(現在の千葉県市原市)に、二男の良兼には横芝に、三男の良将には佐倉に、四男の良繇には天羽に、それぞれ配置して上総の周囲を固めていた。そのうち、佐倉にいた良将は下総介と同時に鎮守府将軍も兼ねた。
延喜11年(911)高望は、73才の生涯を閉じたが、中央政府は、翌年の延喜12年に、藤原利仁を上総介に任命15年に鎮守府将軍に任じた。これに対して面白くないのは、高望の長男国香であった。
その後の延喜17年(918)に良将が亡くなり、いままで一門を中心とした上総・下総の勢力が崩れかけてきた。
平国香は平将門に攻め殺された。国香の子貞盛は、京都にいてこのことを聞き、東国に下り、伯父の良兼と力を合わせて平将門を攻めたが、力及ばず敗れてしまった。
そこで平貞盛は、都に上がって官軍の力を借りて平将門を打つべく手勢を引き連れて都を目指して急いだ。さらにそのうえ、将門が大がかりな製鉄所をつくり、武器や甲冑を製造して、反乱を企てていると朝廷に訴えようとしたのであろう。地方に居って、醜い争いの巻き添えを食らうよりも、将門を中傷するために上京し、それをきっかけに、立身出世をしようというものであった。
そのために貞盛は、承平8年(938)2月中旬、京都の高官たちに贈る「袖の下」を十分準備して、中山道へ向って出発した。
これを聞いた平将門は、もし貞盛が上洛して官に自分の悪行を知らせたならば大変であると、百余騎の兵を率いて、まだ碓氷峠には残雪のある季節なので、これを蹴散らかして峠を越え追撃をした。
当時の東山道は小諸・海野・上田を経て、そこで千曲川を渡り浦野・保福寺峠を過ぎて松本に入るのが順路であったので、貞盛もこの経路を取り、小諸の西、滋野の総本家の海野古城(現在の東御市本海野三分)に立ち寄った。
この地は信濃豪族海野氏がおり、以前の縁故により善淵王(恒成)に協力と助けを求め再び、ここでの、その厚意により、一息をつこうとしたのであろう。
というのは、善淵王と平貞盛との関係は、貞盛が、かつて京都で左馬允の職にあったとき、信濃の御牧の牧監滋野氏と懇意であった。また、以前に平将門が上京のとき、平貞盛の依頼によって宇治川に布陣し、将門を亡き者にしようとした縁故があった。
この滋野氏に協力したのが近江国(滋賀県)甲賀郡にいた甲賀武士、これが甲賀者として、古くから忍術をもって知られていた一族が望月氏で、その功績によって甲賀郡司に任命されて、そこに定着して、忍者の一家をなしたという。
貞盛が海野に助けを求め、海野古城に滞留していることを知った平将門は、先まわりして信濃国分寺付近に待機していた。そこは上田の東方で、北から流れる神川の橋の付近は貞盛が通らねばならない地点であった。将門としては、貞盛が千曲川を渡らせぬために、天慶二年(939)に、ここで千曲川合戦(天慶の乱)が行われたのであります。この日は冬まだ寒い2月29日のことであったと言われる。
この戦火で信濃国分寺が消失してしまったという。
貞盛方の勇将他田真樹というものが、敵の矢にあたって戦死、この他田氏は信濃国造の子孫であるということから、郡司として国府に務めておったが、貞盛の危急を聞いて、一族郎党をひきいて応援に駆けつけたものであろう。
従来、この上田には国分寺のみあり、国府は松本に移っていたものと思われる。
ここは、たびたび戦場になったところで、天正13年(1585)に真田真幸と徳川軍、慶長5年(1600)にも真田真幸と徳川軍が戦っている。そういう宿命的な場所であった。
この戦闘の結果、貞盛の方はまたも負戦となったが、運よく小牧山中にのがれ助かった。将門はいかにしても貞盛をうつべく手を尽くしたが、見つからずやむなく東国へ引き返した。
『千たび くびを掻きて 空しく 堵邑に 還りぬ』 平将門
平貞盛は難を逃れて、長途の旅の糧食を奪われ、飢えと寒さに悩まされ悲惨な思いをしながら、やっとのことで京都にたどり着いたが、持ってきた「袖の下」などは途中でなくしてしまったので、太政官に訴えても真剣に取り上げられず、本国で糺明せよという天判状をもらい、京都での仕官の道も達せず、僅か三ケ月の短い期間で東国へ下った。 (赤城宗徳著『新編将門地誌』より)
海野氏の祖善淵王
滋野恒成(善淵王)は真言宗に深い信仰があり、延長年間(923~30)ころに宮嶽山神社(四之宮権現)を創建している。
その祭神は貞保親王で、清和天皇の第四皇子で、信濃国司の任にあたったとき、当地(海野郷)に移住されたが、延喜2年(902)4月13日に死去され奉葬した御陸墓であります。
その後、松代藩主真田家より毎年米10石、祢津領主より米18石を御供料として進納されておりましたが、明治維新のころから廃された。
神社の頂上までの石段の数は、なんと一年の日数と同じ365段があり、現在では体力増進・維持のためにジョキングをしておられる人を多く見かけます。
滋野恒成(善淵王)は天慶4年(941)1月20日になくなられ、法名『海善寺殿滋王白保大禅定門』をとって海善寺と称された。
当寺は、第56代清和天皇の皇子貞保親王をもって開基とし、承平5年(935)5月に海野郷に一宇を建立して、親王の法号をとって海善寺と号した。
昭和21年(1946)に海善寺集落の西側の畑から「廃海善寺石塔基礎」が出土され、安山岩で、高さ28センチ・底面は46センチの直角で、「文保」(1317~18)の年号が陰刻されており、海野氏の館の鬼門除けに祈願寺として、そのころに再建したのではなかろうか。
六百有余年を経て、永禄5年(1562)11月7日武田信玄が本寺を祈願所として20貫の寺領のほかに、隠居免五貫文を寄付している。翌年7月28日十坊並びに、太鼓免36貫百文を寄付している。
その後、天正15年(1587)ころ領主真田昌幸が上田へ築城したのにともない、当寺も鬼門除けの鎮護として、本寺を現今の地(現在の上田市新田 海禅寺)に移し、再建されました。
鬼門とは、陰陽道でいう家や城の東北の方向のことで、百鬼が出入りする文であると考えられていたのです。ですから都や城を築くにあたって、東北の方向に鎮護のための寺や神社を建立したものです。たとえば、江戸の上のの寛永寺、京都の比叡山の延暦寺などです。
慶長6年(1601)真田候より24貫の地を寄付される。
真田信之が元和8年(1622)海野郷にあった白鳥神社(祭神は日本武尊・貞元親王・善淵王など)を松代に移築の際に、神社の別当寺として移されたものです。海善寺住職阿闍梨法師尊海を伴い、松代西条(現在の長野市松代)に移し、開善寺と改めました。
白鳥山の西麓、こんもりとした林を背に、開善寺が見えてきます。整然と白い塀が境内を囲み、本堂の前には亭亭と杉の木立が伸びています。本堂に祀られている本尊の地蔵菩薩は、開基者の滋野法親王を等身大に刻んだものと言われます。現在は地元をはじめ屋代や稲荷山などの信者の方々がいて、毎年4月15日の聖天講に訪れます。
今の本堂は慶安3年(1650)7月に再建され、境内の経蔵は万治3年(1660)の建築で内部の八角輪蔵(回転する書棚を安置するものとして県内最古です)に天海版一切経(江戸初期に天台宗の僧天海が刊行した経本6323巻で、48年間かかって木活字版)が収められていて、現在は県宝となっております。(松代町誌より)
本堂内の左手の欄間に「護摩堂」とかかれた大きな偏額が見えます。その下方に様々な仏像が、所狭しと安置されています。
不動明王像、右手に馬頭観音菩薩像、左手に愛染明王像、その傍らに数々の大日如来像群などなど。
優しい言葉などでは聞き入れない業の強いものを、県で脅したうえで説き伏せ、右手に持つ縄で救ってあげようとする不動明王。牙をむき出し、怒りの形相なのに不動の名は似合わないようですが、こうして悪魔を追い払い、動かし難い静かなさとりを護っているのでしょう。さて愛染明王では、光背の真赤な日輪は、燃える煩悩を象徴し、愛欲にとらわれ、身を滅ぼしてしまいそうな人々を救い、よりよい人生に向かわせようとします。ですから幸せな縁結び、家庭円満を祈って多くの信者が信仰して来ました。
その他の国々の滋野氏は、次の人々が文献に見える。
先ず紀伊の人で名草豊成・名草安成の両人が滋野朝臣を賜っている。元来は九州の宗形氏族の者が、紀伊の名草直氏の女をめとり、その子孫は母子によって名草宿祢となり、滋野朝臣になった。
また、鎌倉時代の人で、延慶3年(1310)に相模国(神奈川県)の人に滋野景善。元弘元年(南朝年号1331)に能登国(石川県)の人に滋野信直。元徳3年(北朝年号1331)に出羽国(山形県)の人に滋野行家などが見え、室町時代永享9年(1437)には日向国(宮崎県)に山伏滋野氏権津師定慶坊がいる。 (日本家系協会滋野一族より)
海野氏とその子孫について
はじめの海野の地は、ウムナ・ウムノとなって、海野の文字を用いられ、海野郷といい、鎌倉時代に入って海野庄となったという。
奈良時代の初期、天平10年(738)頃に、正倉院御物の麻布に「信濃国小県郡海野郷」と墨書があり、この頃貢物が海野郷から信州の牛か馬の背によって、はるばる奈良の都にもたらされたことを立証する資料である。
さて、海野の祖と伝えられる幸俊から幸氏に至る系図は次のようである。
前記系図の2代海野小太郎幸恒信濃守の長男は海野氏を継ぎ、二男直家は祢津氏、三男重俊は望月氏と分立し、海野氏と並んで信州の雄族で、現地にあっては、相当な勢力になって支族も広く分出し、信州・甲州のみでなく、近江・甲賀にも進出して一勢力となったほか、各地の諏訪神社等の神官となった者もあり、出家して寺を開基して、諸国に赴いた者もある。
孫の幸真は海野4代を継ぎ、6代幸家の弟幸房は下屋将藍として三原(群馬県妻恋村)に住し、その子孫は代々修験者となって、西部吾妻の地を開拓して、その地の草分けとなった。また、その孫は鎌原氏・大厩氏・西窪(さいくぼ)氏と西上州方面に支族が分出している。
8代幸親は、保元2年(1157)保元の乱に源義朝に属し、京都に上り300余騎の左馬頭で参加する。
元暦元年(1184)に木曽義仲に味方して源範頼・義経と戦い粟津にて戦死した。その長男幸広は、治承5年(1181)6月14日父と木曽義仲に従い、白鳥河原に布陣し、横田河原の合戦に参加する。平家方城資永軍敗退、寿永2年(1183)越中倶利伽羅峠の戦いに源行家等と志雄山に向かい、同年10月水島の戦いの折、矢田義清と共に先鋒の将とし、平家の先鋒平教経と戦って討ち死にした。 (源平盛衰記より)
横田河原周辺図
倶利伽羅合戦図
水島合戦場城跡
水島合戦場
二男幸長は、勧学院の文章博士・俗名蔵人通広、出家して南都興福寺で学祖の時は、最乗房信救といい、木曽義仲が挙兵した頃は大夫坊覚明と称した。
その謀議に参じ、木曽没落の後は比叡山に上り、嘉禄元年(1225)71代慈円僧正の弟子となり円通院浄覚と改め、その後源空の弟子となって西仏と改名、のち親鸞に従い、親鸞の行状記を著し、その子の浄賀に授けさせ、康楽寺を開基した。
仁治2年(1241)1月28日、85歳で死去した。
三男幸氏は義仲の子清水冠者義高に従い、義仲死後、鎌倉に下向したが、義高に仕えて頗(すこぶる)る忠勤であったため、却って将軍源頼朝の御感を得て、海野の本領(太平寺一帯、現在の白鳥台団地)を賜り、兵衛尉に任ぜられた。
当時日本で弓の上手といわれた8人の内の1人であるとされている。
(吾妻鑑より)
流鏑馬の図
鎌倉幕府の記録である『吾妻鑑』には、木曽義仲没落後、覚明のことをしばしば記している。
これは覚明の才能を源頼朝が充分にしっていたため、覚明を高く評価していたことの現われではなかろうか。
建久元年(1190)5月、頼朝が甲斐源氏の一条忠頼の追善供養を行ったときに信救得業(覚明)に導師を務めさせている。
その4年後の建久5年10月には、平治の乱(1159)に義朝(頼朝の父)に殉じて死んだ鎌田正清の娘が旧主義朝と父の正清の菩提のために如法経10種供養を行ったとき、願文の原稿を書いたのが、この覚明であった。
つまり信救はみごとに名僧として鎌倉の連中を手だまにとっていたようである。この子・孫が次図のごとく各地において浄土真宗の寺を開基して、その子孫が現在までも続いている。
徳音寺の義仲公像(木曽日義村)
前記の諸系図にある会田・塔原・田沢・刈屋原・光などは信濃の中信にある地名で、その子孫が海野氏の支族である。
そして鎌倉時代から南北朝時代にかけて、信州のみならず各地に支族が移住し分出している。
覚明に継いで、末派約3,000ケ寺の大多数を持つ曹洞宗大洞院を開基した如仲天誾(じょちゅうてんぎん)は海野氏で、貞治4年(1365)生れ、5歳のときに母を失い、9歳にして伊那谷上穂山(うわぶやま))(現在の駒ヶ根市天台宗光前寺)恵明(えみょう)法師に従って法華経を学び、感ずるところあって禅門を慕い、上野吉祥寺(現在の群馬県利根郡川湯村臨済宗鎌倉建長寺派)大拙祖能の門に入って剃髪した。
のち越前(福井県)坂井郡金津町御簾尾平田山瀧沢寺開山梅山(ばいざん)聞本(もんぼん)の許に投じた。
その後江州に南下し、琵琶湖の北辺呪山に入って洞春庵を構えて悟り、それから修行に専念すること3年に及んだ。
再三にわたり閑静安住の地を見つけ出されてしまったので、遠州周知郡天宮神社神主の中村大善とその宮座衆を中心とする天宮村及びその周辺の農民たちを本願の施主として資材の寄附を仰ぎ、門下数人の禅僧を率いて協心力栄、応永18年(1411)に橘谷山大洞院(静岡県周智郡森町橘)を開創し、その後正長元年(1428)に梵鐘を鋳造している。
また更埴市桑原山龍洞院を如仲禅師が応永年間に桑原郷に泊まり、北山に登ったところ、西北に龍の臥するような峰があり、奇勝絶景の地であるとして寺を建て、龍燈院と名づけたのに始まるという。(『日本同上聯燈録』より)
前述した如く、海野幸数・持幸父子はおのおの鎌倉で元服し、幸数は上杉憲基を烏帽子親とし、また持幸は足利持氏から一字を拝領しており、関東管領家に属し、船山郷(現在の埴科郡戸倉町・更埴市)の地頭御家人であった。
その子氏幸は、応仁元年(1467)村上氏と戦い戦死する。その子幸棟を経て棟綱に至る。
天文10年(1541)5月13日隣国甲斐の猛将武田信虎は、村上義清をして海野氏を攻略せんとし、同月15日武田・村上・諏訪頼重の連合軍と海野合戦のとき、棟綱の弟左京大夫幸義は討死した。
幸義の遺児らは武田氏に仕えたが、棟綱と真田幸隆らは上州に逃げ、箕輪城主長野信濃守業政に身を寄せ、天文15年(1548)に棟綱死す。
幸隆は天文12年武田家臣として岩尾城代となる。
幸義の子幸貞は武田信玄に仕えて三河守と称す。また幸義の娘は、信玄の二男信親(のちの龍宝、盲人)の妻となった。永禄11年(1568)三河守幸貞らは越後の上杉謙信に通じる事が露顕して、誅せられ、龍宝は海野氏を継ぎ80騎の将となる。
天文10年に、信州を遂われた海野棟綱は、上野に移って箕輪の長野業政の許に来たが、既に以前より長野原には、同族の羽尾氏がいた。
『東艦』によれば、鎌倉時代の仁治2年(1241)に海野幸氏と武田伊豆入道が、上野三原庄と信州長倉保の境堺を争っていることが見えるので、海野氏の領地が上州にあり、一族でここに分住する者のあったことが考えられる。 (『加沢記』『羽尾記』による)
永禄のはじめごろ(1563)より幸世以下の兄弟は、上州岩櫃城主斉藤憲広に仕えていたが、永禄6年(1563)10月斉藤氏滅亡後は甲斐の武田に属した。
長兄の道雲は、11月末大戸城に逃げている。そして永禄9年に幸光・輝幸兄弟は岩櫃の城代となり、武田氏に属し真田幸隆の配下についていた。長門守幸光は、修験道に帰依して福仙院と号し、金剛院の法弘法師に師事していたという。
弟の輝幸は強弓をひき、荒馬をこなし、兵法に秀で海野能登守と称していた。
天正9年(1581)には沼田の城代になっているが、些細なことから真田昌幸と不和になり、小田原北条氏に組しているとして、11月末真田氏の攻撃を受け、21日に幸光は討死、歳75才、輝幸も沼田城を脱して、迦葉山(かしょうざん)に入ろうとしたが、22日に息子の幸貞と共に刺し違えて死んだ。ときに輝幸は73才、幸貞は38才という。
幸光の法名は、雲林院洞雲全龍といい、羽尾北小滝にその墓がある。
幸貞の次女は祢津元直の妻となり、真田信幸の乳母として真田家に仕え、のち剃髪して貞繁尼と称した。
その弟太郎は天正9年に僅か8才であったために助命され、長じて久三郎といい、姉婿に養育されて原郷左衛門と称した。
元和元年(1615)大阪夏の陣で討死したが子孫は松代藩士となり、今も存続しておられます。
各地の海野氏について
長野県の海野氏
中野市の海野氏
中野市に海野家が35軒あり、うち間山には22軒あります。
現在海野幸治家が総本家を務め、庭内に天照皇大神宮を祀り、海野まけを全員で守っております。 この海野家の先祖は………………
第26代海野小太郎氏幸(応仁元年(1467)村上氏と戦い戦死する)―海野小太郎幸種(幸棟より分家したと思われる)―海野和泉保幸―海野偁後幸忠―海野主膳宗幸―海野和泉幸澄―海野與惣兵衛幸厚(世はまさに戦国時代である、天文10年(1541)武田・諏訪・村上の連合軍に敗れ、海野家は各地に逃げ延び、名字をそれぞれ変えている)―白鳥勘右衛門幸邦(間山の海野家先祖)―2代白鳥太郎兵衛幸英―3代黒鳥文右衛門幸通―4代黒鳥文左衛門幸信―5代海野茂右衛門幸佐(江戸時代の余となり安泰になり元の海野姓を名乗るようになったのでわないかと推測する)―6代海野文内幸康(間山中村組佐藤要助養子)―7代海野金蔵幸照(5代海野茂右衛門幸佐の五男文助)―8代海野勘右衛門幸久(間山郷原組土屋久八の次男義三郎養子)―9代海野文内幸貞―10代海野勘右衛門幸延(子供がなく9代海野文内幸貞の弟)―11代海野勘右衛門幸孝(10代海野勘右衛門幸延の次男辰太郎)―12代海野勘右衛門幸家(菅村山本奥右衛門次男仲一郎相続)―13代海野恵紋幸固―14代海野義一幸治―15代海野幸吉―海野佳広―海野高志
長野市・埴科・更埴市の海野氏
更埴市小島の海野雅信家、長野市篠ノ井の海野幸雄家(海野薬局)、坂城町の海野義雄家、東御市の海野恒男家(山田薬局)の先祖は………………
第23代海野小太郎持幸は、文安6年(1449)村上の領地、船山郷(戸倉町・五加村・埴生村・抗瀬下村等を合して船山郷と言う)へ地頭となり小県大平寺(現在の東御市白鳥団地)より来る。
宝徳2年(1450)小県大平寺より白鳥大明神を分社し寂蒔の地へ移す。持幸地頭になるや、すぐその時代官平原城主海野平原直光を代官として、この地に来る。代官海野直光、船山郷船山へ地頭屋敷(現在の船山神社の横屋敷地)
を造る。持幸地頭となるや代官海野直光をして埴生寂蒔村士族宮坂義洛院・士族丑丸、鋳物師屋士族市河等と共に船山郷発展のために尽力する。
①館の堀割改築工事を完成する。
先住者市河氏館、南・東・北方面の堀割を更に大きく造り、現在その堀 割は屋代陽水となって農業用に使用されている。
②産業発展のため、鋳物師を連れてくる。
脳儀容の発展は農具、機械および鋳物の製造により産業の発展の草分け と呼んでいる。
③千曲川の洪水害を防ぐ。
寂蒔の上より船山までの土手補強工事を完成させ、船山郷を水害から守 った。
康正元年(1455)持幸は、足利義政将軍に呼ばれ京都に行く。持幸・丑丸家と共に、時の天皇に絹織物・錦織物・駒・農作物等を献上する。
康正3年(1457)海野直光は代官を辞する。村上の臣室賀貞信を代官とする。
寛正元年(1460)海野直光死去し、墓地を東山に造る。現在の海野家の墓地。
応仁2年(1467)村上政清は兵を小県に出す。海野小太郎持幸と戦い海野チバ城のつめ口を取る。政清小県を侵す。以後戦国時代となる。
そのほか長野県には199戸の海野家がる。
群馬県の海野氏
岩櫃落城後に僧となり、吾妻郡岩下村内野の天満宮別当となった海野氏がある。
「天山見聞感録」に記載されている『当院中興記』「第11代順円 寛政6年(1794)」の記録にもあり。以来菅原神社の社掌祢宜として現在に至る、現当主海野信義氏は吾妻町岩下に居住している。
群馬県の電話帳で海野家が64戸ある。
山梨県の海野氏
甲斐に残った海野氏で、山梨郡勝沼村に海宝院を開いた流れがある。京都の醍醐三宝院の号を賜るよう運動したという伝えがある。現当主海野金作氏は今も勝沼町におり、遠祖は左京大夫幸義であるという。山梨県の海野家は136戸ある。
千葉県の海野氏
「三つ蝶」「雁金」「州浜」の家紋を伝える流れもあり、現当主海野武幸氏は流山市に居住、千葉県に海野家が233戸ある。
茨城県の海野氏
常陸の国(茨城県)に海野氏がいる。来歴は不明であるが、戦国時代の永禄の頃、山野尾城(または串形城ともいい、多賀郡十王町友部にあった)の城主小野崎義昌の家中に海野安太郎あり、義昌は佐竹義昭の子で、小野崎成通の養子となったが、その際佐竹家から附入として来たという。
天文13年に信州から上州に移った海野棟綱の一族が、更に常陸に赴いたともいわれている。また、同じ日立市に、代々五郎兵衛を襲名する家もあり、当初は「六文銭」の紋を使用し中途から「七曜」に改めたという。
現当主海野喜七氏。日立市に120戸、水戸市に126戸、勝田市に76戸、那珂町に155戸、茨城県には海野家が721戸もある。
青森県の海野氏
陸奥(青森県)の三戸郡市野沢の下洗にも海野氏がおり、三戸南部氏と共に、この地に来て「笹りんどう」の紋を伝えて今におよび多くの海野氏(25戸)がおられます。
福島県の海野氏
なお、福島市五月町の浄土真宗康善寺略縁起によると、13代宗覚のとき、上杉定勝の臣古河善平衛尉重吉が、郡代に任ぜられ福島に住し、水田開墾に財産をつかい果たしてなお不足で、罪を藩公に詫びる覚悟であったが、子孫を絶つことになれば、祖先に対して最大不孝であるとし、兼ねて帰依せる宗覚と計り秀安寺を今の福島に移し、信州塩崎康楽寺の2男重覚を迎え重吉の第3女おまんと結婚させ第14代を継ぎ、康善寺と改称し、これ以来海野姓を名乗り、現在第24代海野篤氏がいる。
当地に30戸位の海野家がおり、山形県の明善寺、北海道の札幌に覚英寺の檀家に海野家がかなりおります。
北海道の海野氏
昭和54年「老壮の友」3月号(日本老壮福祉協会発行)によると、北海道札幌市に在住の海野義治さんは110才で、北海道の男性第一位の長寿者です。
翁は慶応4年4月27日に函館市中浜で父義智(85才没)と母つた(99才没)とに生れて間もなく両親に伴われて、小樽の奥沢に移住して、旅館を経営し屋号を「本陣」と称した。この海野氏の先祖は…………………………
第29代海野小太郎左京太夫幸義(村上義清との合戦の時戦死)―海野四郎幸綱(真田弾正忠幸隆の弟で、武田信玄に属し天文6年(1537)8月3日甲斐府中にて病死)―海野六良衛義綱(穴山義宗の六男養子とし、真田幸村に仕え高野山に蟄居、大阪城で元和元年(1615)5月6日戦死)―海野左兵衛幸知(越前国敦賀郡敦賀川向村で寛永19年(1642)乙名役)―海野左七郎義昌(寛文8年(668))乙名役)―海野左兵衛幸宗(元禄10年(1697)乙名役)―海野左吉郎義氏(享保13年(1728)乙名役)―海野左七郎幸経―海野左兵衛義国―海野左兵衛幸安―海野左吉郎義信――海野左吉郎幸長―海野左七郎義知(明治2年公用和帯び北海道後志国小樽郡に転住する―海野義治―義昌―隆義
その他の県の海野氏
ちなみに電話帳で調べると、北海道に121戸、岩手県に24戸、秋田県に6戸、福島県に101戸、山形県には150戸、栃木県に57戸、神奈川県に250戸。
静岡県の海野氏
前にも記した海野氏の系図に、幸氏の子矢四郎助氏、その子弥兵衛泰信・泰勝・泰秀・泰頼を経て、その子弥兵衛本定(元定)は、諏訪氏の出である安倍大蔵元真の娘を妻とし、その子弥兵衛元重は寛文5年に病死したという。 この子孫は代々駿河の井川郷に住したと伝えられております。
この静岡県静岡市西豊田小学校玄関脇に「せいくらべ」の童謡碑がある。この童謡の作者海野厚は、本名厚一といい、曲金の大地主海野伊三郎の長男として明治29年8月12日にうまれ、早稲田大学卒、大正14年5月20日28才で没した。
長頸子と号し俳句も作つた。特に「おもちゃのマーチ」「ろじのほそみち」「からくり」などは、この人の作として有名である。
この碑は、昭和36年11月3日建てられた。この歌は大正8年ころの作で、作曲は中山晋平である。奇縁というか、この作曲した中山晋平の生れ故郷が長野県中野市の間山にも多くの海野家が36戸もあり、毎年海野家の先祖祭りを執り行なっている。
静岡市史編纂委員の宮本勉先生は「海野は駿河の名族である」と言う。また、井川には金・お茶・美林等があり、駿河の今川氏も甲斐の武田氏も狙っておった場所でもあった。
海野氏を代表するのが、「井川の殿さま」として有名な井川の海野家です。その子孫に清水港を開港した海野孝三郎がいます。日本平の山頂には翁の銅像が港を見守っています。
現在静岡市に1,660戸を中心にして、静岡県には2,415戸の海野家に及んでおります。
福井県の海野氏
福井県鯖江市にある万法寺の開基は古く泰澄大師が石川県石川郡美川町手取に養老3年(719)が開基し、天台宗を伝えたが、関白後は無住にて482年間経て、建仁元年(1201)の頃、第10代海野小太郎氏幸の次男が出家して賢信房と称して当寺の住職となり、伽藍を創立した。
折りしも見真大師・親鸞聖人が越後の国へ流罪のとき、手取川の洪水により当寺に滞留せられ、住僧深く聖人の教法に随喜して、その法弟となり、天台宗を改宗して浄土真宗に帰入した。
ときに承元元年(1207)3月20日本吉山万法寺を開基とする。
初代賢信房―信敬房―賢真房―空順房―従信房―願信房―9世浄信房(弟浄貞が慶長7年(1602)本願寺が東西に分派した際、祖師親鸞聖人御影・顕如上人(分派前の最後上人)御影等の宝物を携えて分離し、真教寺(現在の石川県松任市)を建立し、大谷派(お東)に属した)―円誓―教淳―教宗―教栄―教寿―15世教了―教乗―教貞―乗性―雅亮(明治40年(1907)2月2日に現在地鯖江市鳥羽に移住する)―20世雅竜―21世晃昭師は現在教法に、ご活躍されておられます。
その他に、富山県平村五箇山・石川県松任市長嶋の白山神社・鶴来街中郷の真隆寺・川北町中島の静泉寺・同じく川北町一ツ屋の浄秀寺・滋賀県五箇所町の青蓮寺等も海野氏に関係深いと思われますので今後の研究が俟たれます。
和歌山県の海野氏
永禄初期(1560~)ごろ諏訪刑部(永禄12年(1569)5月卆、法名儀鏡院殿節当祖忠大居士)が一男一女(元眞とその姉)を伴って南アルプスを越え駿州安倍郡井川に入り、元眞は武田氏に随身を拒み駿府城の今川義元に仕える。
今川より地名の安倍の姓を賜り、安倍大蔵と名乗った。
その後永禄11年12月13日、武田信玄に駿府城が攻略され、義元の一子氏実は掛川城に入り、元眞は、その子信勝と共に岡部次郎左衛門と協力し、本丸は岡部氏が、二の丸は元眞父子が守っていたが、戦が不利になり大井川を南下して遠州の徳川家康の援助を求め、家康に仕え援軍を得て、武田勢の拠点筒野城・水見色城・川根城・土岐城・天野城・花沢の城等を攻略するなど徳川山岳戦に従い幾多の功績を掲げたので家康お墨付の感状をいただいた。
その後元眞(天正15年(1587)10月10日卆、法名龍泉院殿心清浄安大居士)隠居し子の信勝(武州5250石、慶長5年(1600)1月2日卆、法名大正院殿捐館等山源勝大居士)に譲り、再び井川に戻り、海野泰頼(慶長20年(1615)10月1日卒、法名天生宗眼禅定門)の長男本定を養子に迎え、本定は海野姓を復活する。
海野弥兵衛尉本定と名乗り徳川に仕えた。その二男海野兵左衛門良次(紀州初代海野氏、1150石、勘定奉行)が元和5年(1619)徳川頼宣に従って紀州に入国する。寛永19年(1642)5月14日死去、法名観翁道夢居士、和歌山市男之芝町天年山吹上寺に葬られている。
2代海野兵左衛門清長(寄合組頭、400石、延宝5年(1677)病死)―3代海野平左衛門幸隆(徒頭、300石、元禄13年(1700)病死)―4代海野兵左衛門清詮(持筒頭、持弓頭、400石、明和6年(1769)病死、87才)―5代海野兵左衛門伴高(中の間番頭格、400石、安永9年(1780)病死、71才)―6代海野兵左衛門清雄(徒頭格、使役頭、400石、寛政8年(1796)病死、76才)―7代海野兵左衛門勤(寺社奉行、持弓頭、寄合組頭、400石、後に、御用人千石、大目付五百石、大寄合格千三百石、天保8年(1839)病死、74才)―8代海野兵左衛門希元(中奥小姓、勘定奉行格、天保15年天保15年(1844)美容師、47才)―希與とつづき、以来紀州で代々徳川家に重く用いられ活躍している。
その子孫に、和歌山県議会事務局長の海野正幸氏がおられ、昭和62年に、初代海野良次「観翁道夢居士」の350回忌にお墓の修理をし、父の50回忌もあわせて追福の法事を行う。ただ残念なことに、平成3年7月に亡くなられ、妻の貞子さんが守っておられます。
その他にいる海野氏
その他に東京都に554戸、埼玉県に267戸、大阪に157戸、兵庫県に64戸、愛知県に197戸、三重県に184戸、和歌山県に93戸、岡山県に100戸、宮崎県には255戸、の海野家があります。
おわりに、海野氏を研究して、まだ日も浅く、これからも調査・研究を続けてまいりますので、いろいろと御教示いただければ幸であります。
海野氏と寺院
海野系寺院は全国に117ケ寺もあり、海野正統は滅亡したが、名族海野家を滅ぼしてはならないと、名ある御家人についたり、出家して住職になったりして海野氏は脈々と現在まで続いております。
寺 名 | 住職名 | 所 在 地 | 宗 派 |
---|---|---|---|
覚 英 寺 | 海 野 覚 爾 | 札幌市豊平 | 浄土真宗 |
永 昌 寺 | 海 野 義 清 | 岩手県北上市 | 曹 洞 宗 |
久 昌 寺 | 海 野 一 義 | 岩手県盛岡市 | 曹 洞 宗 |
康 善 寺 | 海 野 篤 之 | 福島県福島市 | 浄土真宗 |
安 養 寺 | 海 野 徹 成 | 福島県梁川(やながわ)市 | 浄土真宗 |
浄 厳 寺 | 海 野 知 現 | 新潟県出雲崎町 | 浄土真宗 |
真 成 寺 | 海 野 芳 雄 | 富山県大山町 | 浄土真宗 |
真 教 寺 | 海 野 進 | 石川県松任(まっとう)市 | 浄土真宗 |
万 法 寺 | 海 野 晃 昭 | 福井県鯖江(さばえ)市 | 浄土真宗 |
玉 泉 寺 | 海 野 泰 邦 | 静岡県静岡市 | 曹 洞 宗 |
勝 満 寺 | 海 野 貞 行 | 京都市上京区 | 浄土真宗 |
貞 麟 寺 | 海 野 仙 厳 | 長野県白馬村 | 曹 洞 宗 |
極 楽 寺 | 海 野 一 正 | 松本市深志 | 浄土真宗 |
西 生 寺 | 海 野 祐 完 | 松本市島立 | 浄土真宗 |
妙 福 寺 | 海 野 浄 英 | 三水村芋川(いもかわ) | 浄土真宗 |
善 敬 寺 | 海 野 浄 英 | 長野市吉田 | 浄土真宗 |
浄 專 寺 | 海 野 正 雄 | 長野市吉田 | 浄土真宗 |
康 楽 寺 | 海 野 浄 雄 | 長野市東町 | 浄土真宗 |
康 楽 寺 | 海 野 協 親 | 長野市篠ノ井塩崎 | 浄土真宗 |
専 精 寺 | 海 野 教 恵 | 長野市篠ノ井東福寺 | 浄土真宗 |
上 宮 寺 | 海 野 昭 親 | 長野市篠ノ井塩崎 | 浄土真宗 |
本 覚 寺 | 海 野 玄 秀 | 更埴市倉科 | 浄土真宗 |
長 雲 寺 | 海 野 慶 雲 | 更埴市稲荷山 | 真 言 宗 |
證 蓮 寺 | 海 野 忠 英 | 長野市松代町寺町 | 浄土真宗 |
明 真 寺 | 海 野 栄 子 | 長野市松代町東条 | 浄土真宗 |
陽 雲 寺 | 海 野 秋 丸 | 佐久市中小田切 | 浄土真宗 |
長野市塩崎の康楽寺
海野氏系図